私は、モシャブ・キドロン出身のオメル・B・Dだ。NOVA音楽祭の惨劇を生き延びた者として、失った友人を偲んで証言をしたい。私の友人のうち3人は、この出来事の最中に殺された。私たちは12人のグループで音楽祭に向かったが、戻ってこれたのは9人だけだった。 朝6時、私はNOVA音楽祭の会場にいた。音楽祭のキャンプ場で30分ほど仮眠して、目を覚ましたところだった。日の出とともに踊る前に、エネルギーを充電するための休息が必要だったのだ。突然の悲鳴とロケットの音で目が覚めた。私は周囲を
私の体験を証言したい。記憶には間違いなく多くの欠けがあるし、いまだフラッシュバックに悩まされている最中だが… 毎月、私は車でスデロットの母を訪ねている。この前の金曜日(10月6日)には、母が孫(4歳の女の子と1歳の男の子)に会えるようにと思い、子どもたちと一緒に母の家へ遊びに行った。 金曜日に公園を散歩し、土曜日の朝6時、ロケット警報のサイレンで目が覚めた。しばらくして、スデロットにテロリストが潜入しているというメッセージが届いた。 このときから、私の世界は崩れ去った。ど
2023年10月7日 ナハール・オズ。 朝6時半、聞き覚えのある音に慌てて目が覚めた。レッドアラートだ。私は何も考えず隣の部屋へ向かい、犬のトム・トムを素早くセーフルームに連れて行き、玄関のドアに鍵をかけた。そして再びベッドに戻り、布団に入って眠りについた。「あのトラブルメーカーたちがまた騒ぎだしたぞ」と思った。「土曜日の朝だ。すぐに終わるさ」しかし、鳴り止まない警報の波が押し寄せ、私たちは戦火に投げ込まれた。 ロテムと私は顔を見合わせ、何か異常な事態が起きていることを認識
私たちの経験を再び組み立て書き記すのに、長い時間がかかった。それでも、多くの細かな出来事が、未だ欠けたままだ。それらは時折思い出されては、また記憶の彼方に消えてしまう。きっとそれが一番良いのかもしれない。 これは、私の実体験だ。 10月7日土曜日の午前6時半、私たちはレッドアラートのサイレンの音で、慌てて目を覚ました。休暇中、キブツに一緒に滞在していたバラクの母親と一緒に、セーフルームに駆け込んだ。子供たちはセーフルームで寝ていたが、バラクが音を立てながら素早くセーフルー
NOVA音楽祭は、2023年10月6日に幕を開けた。しかし、私たちにとっては、もう少し早くから始まっていた。 2週間前、オムリから電話があり、音楽祭のステージデザインを依頼されたのだ。本番まであと2週間?心配ない!相方のドロールはまだネパールにいたが、彼がイスラエルに戻り次第、私たちが作業を始めることは当然だった。 2023年9月20日。ネパールにいたドロールからメッセージが届いた。「姉さん、キプールが終わったら、朝一番に会場に行く。死ぬ気で働くよ!」彼のこのメッセージは、
これは私の物語であり、私の故郷キブツ・ニル・イッツハクの物語である。 金曜日の夕方、2日前に海外から戻ってきたばかりの私は、「Bein Hakolot(声を通して)」という特別なイベントに参加するためにキブツ・ベエリに向かって車を走らせていた。その夜のイベントのテーマは「ベエリで過ごした子供時代」というものだった。 それは人々の絆を育む格別な時となった。さまざまな地域から集った参加者たちは、個人的な思い出話を共有したり、それに関連する歌を歌ったりした。その夜の参加者は30
午前2時まで、19時間半もの間、私たちはセーフルームに閉じこもっていた。 子供たちは、眠りについては爆風のたびに目を覚ます、というのを繰り返していた。救助されるまでの7時間、停電のため、セーフルームは真っ暗だった。私たち夫婦はそれぞれ、子供たちのそばに寄り添った。 両親が生きているかどうかはわからなかった。最後のメッセージのやり取りで、両親は「家に火がつけられた」と言っていた。テロリストがセーフルームのドアを破ろうとし、濃い煙が部屋に入ってきたという。両親は床に這いつくば
朝6時半ごろ、レッドアラートから全ては始まった。私たちは子供たちの寝室でもあるセーフルームへと急いだ。子供たちをなだめながら、今度はどこに避難すれば良いのかと考えた。ジクロンにある妻の実家か、それともエイラトに向かうべきか。 何度も爆発があった。激しい音だった。そして数分後、とても近くで銃声が聞こえた。いまだかつて経験したことのない事態だった。私はすぐに銃を手にし、戦闘服を探した。カーゴパンツ、スポーツシューズに履き替え、外に出た。 キブツ・レイムのセキュリティ・コーディネー
私たちが助かったのは正に奇跡だった。 私はネティヴ・ハアサラに住人の一人として、体験したことをシェアしたい。今、思い出すだけで耐えきれないけれど、自分なりの精一杯の思いで、語ろうと思う。 10月7日、凄まじい数のロケット弾攻撃と共に朝を迎えた。ロケット弾攻撃には慣れていたが、今回は全く異質だった。 防空壕に身を寄せ合い、私と姉は極度の不安に襲われた。 凄まじい爆発音が鳴り響き、あちこちから銃声が飛び交っている。 これまで遭遇したことのない、信じられないあり得ないよう
2023年10月7日、土曜日。 午前6時、携帯電話のアラームが鳴り響き、いたるところでレッドアラートが表示された。私は、またいつもの爆弾か何かで、シェルターにしばらく隠れていれば直に終わるだろうと思っていた。そのあと数時間以内に起こることが、私たちにどれ程の苦痛を与えることになるかなんて想像もしなかった。 息子のアミットは、キブツ内の若者居住区の中の部屋に一人でいた。彼は、すぐさま母親のアディに、どうしたらいいのかと電話をかけてきた。妻は、息子に、シェルターに入り、外には
私はナハール・オズ基地の監視部に所属する。ミグニット(ドアのないコンクリート製シェルター)の地獄から生還したのは私だけだ。見捨てられ殺された友人たちを追悼する意味でも、あの場所で何が起こったのか事実を明らかにすることが私の使命だ。 午前6時30分、私は爆発音に飛び起き、慌てて素足にパジャマ姿のままミグニットに飛び込んだ。同僚の見張り兵の女の子たちも全員、止まない攻撃の中、ミグニットに避難して来た。爆撃は激しく、破片さえ中に飛び散って来た。 誰からも連絡はない。指令室に連絡
土曜日の朝6時半、最初のロケット弾の音は偵察機のような音だったので、テルアビブを狙っているのだろうと思った。いつもは、上空を通過するだけなので急いでセーフルームに避難することはない。しかし徐々に大きくなる音の激しさで、すぐさまセーフルームに入らなければと思った。夫のナフムと私は防空壕に向かって走った。その途中、台所の窓から、家の外の小道に黒い服を着て頭に白い帯を巻いた3人の人影が見えた。ナフムはキブツの緊急対応部隊だろうと言ったが、私にはそうは見えなかった。 彼らはアラビア
それは土曜日の朝のことだった。10月7日の悲劇からもう1週間が経ったのだと、頭ではわかっている。けれど、何が起こったのか、私はまだ全く理解できていない。 10月7日 6:30 携帯電話の振動が止まらない。私は徐々に目が覚め、異変が起きていることに気づく。ベッドから飛び起き、急いで服を着て、兄弟のナティに無事かどうかメールする。 ナティは、より穏やかでのどかな場所で暮らすために、2人の娘を連れてキブツ・メフラシムに1カ月前に引っ越したばかりだ(もともとはベエル・シェバ出身)。
これは、私の10月7日の記憶だ。 5:30、イタマル(私のボーイフレンド)、アロン、セゲヴ、アイレット(イタマルの友人)、そして私は、NOVA音楽祭の会場に到着した。私はみんなと別れ、南から別の車で到着した友人たちのもとへ向かった。音楽祭は予定通り行われていた。すべてが順調だった。 友人のゲフェンと話していると、彼女は「イスラエル緊急情報アプリで、レッドアラート(ガザ地区からのミサイルを知らせるサイレンのこと)の警告がたくさん鳴っている」と教えてくれた。突然、ロケット弾の
すべては10月7日土曜日の午前6時30分に始まった。ロケットの弾幕が始まり、レッドアラートのサイレンが鳴り響いた。 すぐに収まるだろうと思いながら、急いでセーフルームに避難した。しかし、時間が経つにつれ、これはいつもの攻撃とは違うと思い始めた。テロリストがこの地域に潜入したのだ。 セーフルームに閉じ込められたまま、充電器、水、メガネなどの必需品がないことに気付いた。両親や友人とはWhatsAppで連絡を取り、互いの無事を確認し合った。 しかし、遂に携帯電話のバッテリーが切れ
午前6時、ダンスフロアは熱気に包まれ、美しい人々が幸せいっぱいに踊りながら、日の出を待っていた。音楽祭の時に見る日の出ほど素晴らしいものはない。最高のシーンだ。 しかし日の出を楽しむはずの空は、一面に広がる大量の「光」で埋め尽くされた。音楽が止まり、レッドアラートのサイレンの音が響く。その「光」は大量の弾幕だった。ニュースでしか見たことのないような、そして南部に住む人々しか普段体験しないような激しいミサイルだった。体はショックで硬直したが、今すぐ逃げなければならないと悟った