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すがるように、手に肉切り包丁と唐辛子スプレーを握り締め、外へ出た。

私の体験を証言したい。記憶には間違いなく多くの欠けがあるし、いまだフラッシュバックに悩まされている最中だが…

毎月、私は車でスデロットの母を訪ねている。この前の金曜日(10月6日)には、母が孫(4歳の女の子と1歳の男の子)に会えるようにと思い、子どもたちと一緒に母の家へ遊びに行った。 金曜日に公園を散歩し、土曜日の朝6時、ロケット警報のサイレンで目が覚めた。しばらくして、スデロットにテロリストが潜入しているというメッセージが届いた。

このときから、私の世界は崩れ去った。どうすれば良いのかわからなかった。すぐにドアに鍵をかけ、家のブラインドをすべて閉め、電気を消し、少なくとも侵入を阻止するために、ドアの前にテーブルを置いて塞いだ。母の家に集まっていた全員をできるだけ静かにさせようと努力したが、私には小さな子供がいた。状況を理解できない自閉症スペクトラムの娘と、それなりにトラブルメーカーの1歳の赤ん坊だ。その現実を、忘れないでほしい。
私たちのもとに、殺害された人々の写真が届いた。階下に住んでいた隣人の遺体の写真を受け取ったとき、母は泣き出した。

2023年10月8日。私はマゲン・ダビデ・アドム(イスラエルの赤十字)に、階下の殺された隣人を救出するよう電話で要請した。しかし、「できることは何もない」と言われ、断られた。彼ら曰く、近隣の町はすべて同じような状況にあり、負傷者を避難させるだけで手一杯だということだった。殺された人々の遺体が救出されたのは、しばらく後になってからだった。

殺された人々の遺体が路上に放置されるなんて、想像もつかない状況だった。これまでもかなりの遺体が盗まれていたので、隣人の遺体もガザへと運ばれてしまうのではないかと心配になった。階下の奥さんは、(夫が殺されたことを)知らなかった。彼女も、ひょっとしたらと思ったかもしれない。けれど、夫を殺されたことを彼女が本当に理解しているかどうか、私には分からなかった。また涙があふれてきた。彼はただ仕事に向かっただけなのに。10月7日の朝、私の母は窓から彼を見かけ、「本当に仕事に行くの?」と声をかけた。すると彼は、「他に何かできることがあるかい?働かなくちゃ」と答え、そして帰らぬ人となった。60歳を過ぎ、家で帰りを待つ妻を残して。

私が怯えながら家の外に出て、開いているスーパーマーケットを探しに行ったとき、彼の車は見えたが、遺体は見えなかった。私はほっとした。少なくとも48時間後には遺体は避難させられたようだった。なぜなら24時間前には、彼はまだそこにいて、シーツで覆われていたと姉の友人が言っていたからだ。なんという不条理だろう。でも、それが現実だった。この国が居眠り運転をしていたせいで、ガザの人々が好き勝手にこの国をいたぶったのだ。2時間もの間、彼らは国境を自由に行き来し、人々に銃弾を浴びせた。命を賭け単独で戦いに飛び込んでいった一部の勇敢な警察官を除き、治安部隊も軍隊も助けに来なかった。銃の免許を持つ民間人、そして戦うための武器をまったく持っていない英雄的な民間人たちが、ただ自分の家族を救おうとして戦ったのだ!何時間も経ってから、わざわざ政府がやってきて、この町を"制圧"するまでは!

これらの町の人々は、(人質に取られた)愛する人たちが心身ともに無事に家に戻るまで、政府を許さないだろう。以前のような「静けさ」を取り戻すには、かなりの時間がかかるだろう。

さて、一体どうやって子供たちをスデロットから脱出させればいいのだろう?私はイスラエルの中心部にいる家族だけでなく、可能な限りのあらゆる組織に連絡を取り始めた。丸一日が過ぎても、私たちの置かれている状況は不確かだった。子供たちのための食料が底をつき、危険を顧みず、開いているスーパーマーケットを探しに外へ出ることにした。まるでそれらが何かの助けになるかのように、肉切り包丁と唐辛子スプレーを握り締め、姉の友人と共に恐る恐る出て行った。

スデロットの路上に広がっていた恐ろしい光景を見て、私は恐れ慄いた。罪のない人々の血で満たされた車、弾痕だらけのバス停、完全に破壊された車。その恐怖は筆舌に尽くしがたいもので、詳細を書く気にはとてもなれない。目を閉じれば浮かんでくる光景を、見たくはない。近くのすべての町には、同じような光景が残された。私が語れるのは、スデロットで見たことだけだ。

朝から夜8時まで停電していた。明かりも何もなく、真っ暗闇の中で、子供たちを飽きさせないことができただろうか。携帯電話の充電も電波もなかった。また、スデロットでは常にテロリストの潜入が疑われていて、私は死ぬほど怖かった。娘はなぜ電気がないのか理解できなかったので、携帯電話を充電するために車に行くことにした。どこかにテロリストが隠れているのではないかと恐ろしかったが、他に何ができるだろう?イスラエル中部にいる家族と連絡を取りたかった。

妹は護身用のナイフを手に、友人と連れ立って外に出た。20分後、彼女は命の危険を感じて戻ってきた。ロケット弾を恐がらない彼女も、テロリストには怯えていた。前者は彼女が慣れ親しんだ現実だったが、後者−この「新しい現実」−はそうではなかった。テロリストが潜入しているスデロットの町を、まるで何も問題ないかのように歩くことができるだろうか?家の中に誰かが隠れているのではないかと心配せずに?テロリストがあなたの命を奪いに現れる可能性がないかのように?どうしてそんなことができるだろう。

この国は私たちを裏切った。政府はどうしてこんなことを許してしまったのだろう。誰かが、迅速に、その答えを出す必要がある。運命がわからない愛する人のために、家で泣いている家族がいるのだ!そして、昨日(10月8日)、スデロットに潜入しているテロリストがさらに増えたと連絡があった。もう耐えられない。家に帰りたい、夫に会いたい、ベッドが欲しい、安全で安心な家が欲しい、子どもたちに起こるかもしれない恐ろしいことを考えたくない。

2023年10月9日月曜日。私たち家族は「ブラザーズ・アンド・シスターズ・イン・アームズ」(軍の兄弟姉妹)から連絡を受けた。「何人が一緒にいますか。車はありますか」と聞かれた。私は「はい」と答え、6人なら1台の車に押し込めると答えた。なぜなら、家族が引き離されたくなかったからだ。指示された目的地に着くまで、一番小さな子は妹の膝の上に座らせておくことができた。

電話が鳴り、私たちは階下に来るようにと言われた。私は、これが本当はテロリストからの電話だったとしたら、何が起こるかわからないと思い心配になった。私は夫と電話をしながら階下に降りた。そこには車が2台待っていた。男性が、自分の名前(エレズ)と一緒にいた人の名前を教えてくれた。全部で4人。そして、前後を車で挟み、ベイト・カマまで護送すると説明してくれた。ベイト・カマから先は、私たちだけで移動できるように道が確保されているとのことだった。

私は母や妹たちと、子供たちを急いで下に降ろして出発した。道中ずっと、彼らが「ブラザーズ」と印字されたTシャツを着ていようがなかろうが、私たちが本当は拉致されているのではないかと心配だった。誰が誰で、何がどこにあるのかも分からず、特にあの状況では誰かを信用することは不可能に思えた。

私には小さな子供が2人いて、彼らの健康だけが気がかりだった。子供たちに怖いことが起こるくらいなら、私は死んだほうがマシだ。姉と母と私は、目的地までの20分のドライブの間、ずっと泣いていた。目的地に着いて初めて、すべてが無事で、ベイト・カマにある「ブラザーズ・アンド・シスターズ・イン・アームズ」の基地に到着したことがわかり、ようやく深呼吸ができた。

彼らは、まずリアンに水とお菓子と食べものを持ってきてくれた。そして私たちにも食べ物が配られ、座って休むことができた。安心した。彼らは、他にもたくさんの人を救出し、ベイト・カマに連れてきた。

私たちは夫と義弟を待った。夫が到着すると、私はアビブを抱いて夫のところに駆け寄り、抱きしめた。そして今までに経験したことのないほど号泣した。こんなに恐怖を感じたことはなかった。それからすぐに、到着した車と彼らが運んできた車の2台に家族を分乗させ、安全な場所まで帰路についた。神経をすり減らすような45分のドライブの後、私たちはようやく家に着いた!私は義母に抱きついた。本当に助かるとは思っていなかったので、嬉し涙をこらえきれずに泣いた。体はずっと震えていた。

"地獄からの脱出"を実際に助けてくれる善良な人々がいるのだということを実感した。私は「ブラザーズ・アンド・シスターズ・イン・アームズ」に心から感謝したい!彼らは私の家族と子供たちを救ってくれた。
そして、ヤハロマとヤニブに感謝している。家族は良いものだ。ヒラに心から感謝している。

私は皆さんに、人生の一瞬一瞬に感謝してほしい。私は週末を母と過ごしに行き、母が孫との時間を楽しめるようにしただけなのだ。そして、次の瞬間戦争の中に投げ込まれた。母の家から生きて帰れるとは露ほども思っていなかった。

(イスラエルの)南部全域が、何らかの形でこのテロに耐えているという現実は、信じられないほど悲しいことだ。死しか知らない殺人組織の手によって、何百人もの男性、女性、子どもたちが冷酷に殺され、そしてハマスの捕虜となった。ヒズボラは、何が起きるのかを正確に知っていただろう。イスラエル政府に答えはなく、あるのはただ無力感とと不確実性だけだ。

私は南部に住む人々の暮らしのほんの一部を経験しただけだ。こんなことは終わりにしなければならない。こんな暮らしにはもううんざりだ。

アンナ・Z

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