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83小品目 海辺と湖畔

久々にうわぁ、ということをはばからず言う人に会った。そんなに知っているわけではないが、印象としていわゆるイタイ人のようにわたしには見受けられる人が、

私、人を論破するのが好きなので、

と発言。うわぁ、だ。わー、この人、いてー!と目をむいてしまった。そしてそのことに日の夜、随分もやもやしてしまった。



おそらく、その人は自分は頭が良い特別な人間と思い込んでいて、アピールしたくてその発言をしたと思うのだけど、逆効果でしかない。昔、オレ、悪かったからというのが、カッコイイアピールだと思ってしちゃうのと同じだ。隠しているつもりのコンプレックスを勝手に浮き彫りにする、そして自分以外の人にそれをむず痒くも受け取らせてしまう困ったありようなのだ。




そしてわたしは論破が嫌いだ。例えば相対する意見の人がいたとしたら、わたしは違うんだけどと話しながら、なにか粘土をこねるような共同作業がしたい。それがかたちになってもならなくても。



でも数日経って、違うなと思った。無関心なら、受け取らない。受け取ってもやもやしたということはなにかしら、自分にも訴えかけるものがあったのだ。わたしは家族が間違ったら、正々堂々と責める。そしてその時、認めたくないが快感を得ている。意地悪な自分がいる。中国の一部の人が戦争に関しては日本人にどんなひどい態度や言葉を投げつけてもいいと思ってるのと似ている。



そしてわたしは論破好き公言の人をバカにしている。彼女が結婚はしていないと聞いた時に、そりゃあねって思った。なにそれ、すごい意地悪。いや、論破好きでも結婚してる人いるじゃない。わたしが嫌いなタイプでも結婚してる人や成功してる人や幸せな状態の人いるじゃない。わたし意地悪!



そうなのだ。多分、嫌いだなと思う人って、わたしが意地悪だなって、思い知らしめてくる部分がある。シンプルに嫌な奴の時も多いけど。そしてわたしはわたしが意地悪だということに抵抗があるのだ。コンプレックスを持っているのだ。

へー、そうなんや、わたしって意地悪なんや、

で済ませられないのだ。わたし良い人だもんて、思い込みたいのだ。



ということに気づいたので、これからも自分はアジャストの余地があるなと思ったのだった。なにかに寄せるため?それは居心地の良い自分に寄せるために。


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