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本と私の世界について

↑本だけで出かけられるおすすめブックカバーなんだけど、なかなか荷物が多い人間なので活用できていない。あと文庫なかなか読まない。
ほしい人がいたらあげたいと考えて2個買ったけどその時はまだこない。


最近、人に勧められた本を読むことが多い。
本に限らず、自分の興味はわりとTwitter(現X)から構成されることが多いので、著者からのPRやインフルエンサーからのプッシュなどがほとんどだった。なりたい自分、自分はこれを読むべき、みたいな感じで理想に合わせた本が多い気がする。自分の輪郭を確かめて改めるための本。
一方で最近、友達からの勧めで本を読むことが増えてきた。


サークル内で合同誌を作った時に、「おすすめの作家と本特集」のコーナーを設けてくれた子がいた。好きな作家について紹介したのちにその中で一番好きな本を、サークル内の友達に当てはめてこの人に紹介したい、と締めくくるやり方は、パワフルな紹介だなと思った。
私はその子と仲がいいこともあり、1人の著者を推薦されていた。小川洋子のなかでも『薬指の標本』という代表作(いや代表作は博士が愛した数式になるのか?)を推されていた。
わたしは小さい時に『博士が愛した数式』は読んでいたけれども、その当時は作家買いをするほどはハマらず、江戸系の本と東野圭吾と、中学受験に必要そうな本を読む子供だったため、『薬指の標本』は通っていなかった。
改めて読んでみると、ねっとりとはまた違うんだけど緻密に足を絡め取られていくような世界観で、わりとカラッとした性格のあの子がこれを好きなのがちょっと意外な感じがした。感想を伝えてみると、「この子ってこういうところに面白さを感じるんだ」という発見があって、本って、感想を身近な人と伝え合うともっと面白いんだなと思った。
新しく人を発見すると、なんだかその人の本棚についてもっと見たくなってしまう。理想を見出して「私はこれを読むべき」と自分に課す本よりも、友達への興味関心でブーストされている時の方がサクサク読めることが増えた。

私はインスタグラムを、表紙とその読書感想文のスクリーンショットを何枚も上げる場として使うことが多々あり、それは人に勧めているつもりではなく単なる備忘録に近いんだけど、割とニッチな本でも同じ本を読んでいる友達がいて、感想や別のおすすめの本をもらうことが最近ある。
私は文章が苦手ではないが、相手を限らずに感想をオープンにすることに最初は戸惑う部分もあったけれども、少しクローズドだからと自分を納得させて、生き生きとできた。
本はよほど気に入ったものでない限りは場所と資金の都合、メルカリなどでサクサク売ってしまうのだが人に勧めるのも悪くないなと思って最近は取っておくことが多い。
人に勧めてみて共感し合えるのを、こちらから仕掛けていくことの大事さみたいなのがやっと身につきつつあるが、私のスタイルはこの辺りまでで、自分に響いたことは自分のことだけだと捉えることの方がまだ多いので、ゴリゴリの布教をすることはほとんどない。

恥じらいもなく言えば、私は多分本が好きというよりは本が好きな自分が好き、という方に近くて、意識しないと全然読まないし、積読ばかりが増えるタイプだ。持っていたい本は、「これを大事にしている自分のことが好きだな」という本が多い。
一方で布教のために何冊も本を買えるタイプの人もいる。その子からさらりと渡されたり、プレゼントしてもらった本が何冊かあるんだけど、どれも好きではあったけれども、彼女と私では本と自分との結びつき方は少し違うのだろうなと思うことがある。
「あなたに向いてると思います」という体の時もあるが、基本は「これ私が好きで」という形で渡されるのだが、私は自分の魂をそこまで本に見出すことはなかなかないし、それを人に渡せるほどその魂を他の人にも感じてほしいと思うことはない。
その子からの本のプレゼントの本質について理解できたことは多分ないのだけれども、著作のある子だから、自分が感動した世界を丁寧に人が見せてあげるのが心地いいタイプなのかなと勝手に思っている。
魂を震わせて本を読む、結構疲れるので私はもうできない気もする。最近はなかなか小説から離れている。主人公の持つ世界に染まりきれないことが増えた。それだけ私の自我は脆く、守ってやらないといけないものになっている。

本を友達と読むこと、私の原体験は小学校の頃にナルニア国物語が映画化されるにあたってそんなに仲良くない友達2人とたまたまシリーズを読んでいて、普段全然本を読まない子の主要登場人物にブレがあって面白かったのがとても印象的だった。その人にはその人だけの物語が生まれるんだなという例を見た気がしたし、自分は入試的読解力が高いだけで真に物語の豊かさと共にあるわけではないことの諦めを感じた瞬間でもあった。
ハリーポッターのように、爆発的ヒット作をみんなで読むような、お祭り感があるのが今は賞系の本のバズに当たるのかもしれないが、自分は不特定多数との読書体系は今は価値をなかなか見出せないでいる。いや、全ての本は本になっている時点で不特定多数との読書体験はスタートしているのは重々承知なのだが、足並みを揃えた興味というのがなかなか難しく、本に対してこちらが選択するまでそこにあり続けてくれるようなマイペースさを求めているような気がする。
本を読み、つかんだきっかけをまた何かのきっかけにして別の本に手を出したいなと感じるその瞬間にこそ、今の私は贅沢を感じる。本好きならこうだろというアイデンティティにして読む本を決めつけていってしまうのはなんだか勿体無いのだ。

交友関係を本の世界に持ち込むことは、「あの人たちの話題についていかなきゃ」という焦りを大好きな本の世界に持ち込むことだと思って嫌厭してきたけれども、やってみると案外適度な距離感のある範囲の話で、面白いなと感じる。それは本の持つゆったりとした時間があるからかもしれない。(多分pixivとかだったらちょっと話が違ってきたと思う。)
改めて本が好きだなと思うし、こういうやり方で今、本が好きな自分のことも好きだなと思う。