炎上するネット時代の切り取り文化,誤解を生まないための言葉遣い,ファクトチェックに対しての反省と謝罪と自戒
落合陽一はあらゆる差別は容認せず毅然として対処するよう努めています.
【何が問題か】
僕はコンテンツの長さやコンテクストに合わせてコンテンツに幅があることが大切であり,それが面白さを作り,理解を助け,楽しめものをつくると思っています.自分が研究者や実業家や様々な顔をもち、色々なメディアでの発信をすることで社会に対し自分のすべきことに興味を持ってもらったり,仲間を増やしたりすることが必要だと思って行動しています.色々なメディアでの発信をすることで社会に対し自分のすべきことに興味を持ってもらったり,仲間を増やしたりすることが必要だと思って行動しています.
また自分自身浅学な面もあり,言葉回しや言葉遣い,過去の書籍の表現が不十分だった点も多くあります.誤解を与えた皆様には,大変申し訳なく思っております.あらゆる差別に対しては,断固として容認せず,自分自身社会を変えるよう努力し,日々生きています.
【1具体的な事例】
コンテンツの量やその文脈やその全体のつながりを除くと意味が変わってしまうものも多々あると思っています.今年の年末年始は多くのそういう自体に直面しました.反省も多々ありますので思ったことを書こうと思います.
例えば年末に多くシェアされたこれ.
下を見ればわかるように,コンテクストが共有されている人たちの間では成立する(本を買ってきた,NewsPicksの有料会員であればわかるようなもの)を切り出してバカにする風潮というのは,見ている人からすればもとのコンテンツに当たろうとすればコストも高いし,そもそもこの記事を読む人はファクトチェックができないし,ネタにしたいんだから読む気もないんでしょう.(この記事自体は僕も笑いましたが,そういうことが盛んな社会が好きかと言われれば好きじゃないです)
ただ,こういう切り取られ方をするというならばこれは隙ですし,真摯に受け止める必要があるのかもしれない.著作権動画の切り出しをシェアしているなどの著作権上の理由で防ぐしかないかもしれません.しかし,コンテクストが共有されている場所の発言を切り出してくるというのはコンテンツのオープン化を退けるし,全てのものがスクショや録音録画禁止になったらそれは非常に生きづらい社会なのかと思います.
【2・具体的な事例】
他にも例えば先の落合古市対談.
落合古市対談の件は結果として自分の認識が至らなかったところを多くの識者のご指摘いただいたおかげで自分にとっても学びが深かったのですが,
例えば年末にこの記事が出たときに「切り取り方」で最初の炎上をしました.
この記事から派生した炎上は人格否定が特に多く,ファクトを伴った議論に展開したのは長い文章がWebで公開されるようになってからでした.もちろんファクトチェックが甘かったことも含め多々反省があります.そのため上の記事や末尾のリンクを見て欲しいのですが,書籍というオープンでないコンテンツの一部を切り出したものをもとにしたもの出なければ,どうだったでしょうか? 20ページの対談の中から恣意的に切り出したフレーズをもとに様々な議論が始まりました.そのおかげで,間違ったところを指摘して訂正する以上に印象論や感情論が先行したように見えました.
僕はこの長い対談の中からフレーズを切り出されるスクリーンショット系炎上に関しては肯定する気にはなれません.僕はオープンな議論については肯定的ですが,タイトルや見出しだけで議論する人たちも多いです.しかしながら,コンテンツビジネスをされている方の一部はそういったアクセス稼ぎに加担する人たちもいて,印象だけで議論する人々を相手にすることは難しいと思っています
【3・4さらに具体的な事例】
他にもたくさんあります.上記と絡めて,差別や優生思想に対しての紐付けたい人々からの批判です.
例えば,僕は「優生思想については大きく異を唱える立場」です.そもそも障害や人の認知機能や身体機能にまつわるものを克服すべきものと考えていません.そういった「ちがい」に適応できない「未成熟な技術や未成熟な社会」が変わるべきであり,「個々人の多様性によって柔軟な社会システム」が形成されることを目指しています.
その社会は管理された「社会」という枠組みというよりは「自然」であるものをめざしたいと考えているがゆえに「デジタルネイチャー」 という言葉を使っていたりもします。しかしながら、例えば茂木さんのブログは中身を読めば優勢思想の話をしていないのは明らかなのですが,タイトルだけ見た誰かから僕が「優生思想だ」と批判されることもあります.
そんなことまるでない.こういうことを口ではいうのは簡単ですが,僕が毎日,実際に様々なプロジェクトを行ってる中でそういうことを考えながらやってるとしたら,僕はすぐ疲弊してしまってやる気にはなれないと思います.
また他にも,僕はいかなる身分差別や職業差別も肯定していません.ましてや復活させるべきとは考えていません.僕はとにかくフェアな世の中を作りたい,そのためにどういう思考実験や実装が必要なのだろうかということを愚直に行動をしてきたつもりです.
しかしながら,例えば下記の記事はカーストを肯定しているように切り取られています.僕は「社会制度としてのカースト」を断固として否定します.
「日本再興戦略」の中では,「身分差別がなく,そして職業選択が自由である」とという仮定の上で「士農工商」や「カースト」を例示しています.僕は「ストレスマネージメントされた、ワークアズライフの考え方が重要という文脈」で,拝金主義的(商重視)で本来の価値づくりの側に目が向かない今の社会への批判として持ち出しました.(これを分人と捉えて説明した方がいいとご指摘いただいたことがあります.それは後述します)
「100個の職についてやって行くこと」「生産している労働している人にお金が回る仕組みを作ること」,「各職業がコミュニティとセーフティネットを持つこと」,そしてどうやったら「我々の社会を良くできるか」を考えた上で思考していました.もちろんそれが明治政府のプロパガンダの説や儒教の背景を鑑みた上,また士農工商が学校の教科書に今は載ってないことや制度ではないことなども踏まえた上で「社会に価値を生み出すためには「生産者」に敬意を払わないといけない」という例で用いました.それは僕自身が沢山の仕事を現場で行うことを100の姓を持つことになぞらえて自分を「農民」として説明した部分です.しかしながら多くのネットの飛ばし記事には意図や文脈を追うことなく切り出されています.
もちろん著書の中から文脈を切り離して切り出される可能性を加味すれば不用意な発言ではあり,いかなる書き方とはいえ,そういう受け入れ方をされる方がいるなら訂正すべきだと思っていますし,もし不快な思いをされた方がいるなら申し訳なく考えています.(上記のワークアズライフの説明をするときにストレートに「コミュニティごとの人格を持つこと・セーフティネットを持つこと・複数の職を持つこと」とすればよかったところだったのかもしれません)
周りくどいことを言わず,「分人主義について触れれば「カースト」という言葉を使わなくてよかったのではないか」という指摘をいただいたことがありましたがその通りだと思います.浅学な自分を恥じ,撤回すべき単語であると思っています.
このブログを読む多くの人はまとめブログや炎上記事のようなものに反応していたらキリがないというかもしれませんが,そういった「間違えた考え方を誘導する誤解」は発信することで解かなくてはならないと思っています.僕は常にフェアでありたいと思っていますし,身分差別制度を肯定することも職業差別制度を肯定することもありません.(もしそう捉えられるようなことがあれば撤回しますし,社会制度としてそういったものを肯定するつもりは毛頭ありません)
なので,今までは「全文読んでください」,といった上でリンクを貼るなどの対応していたのですが,それではまるで伝わらない.日本再興戦略は15万部ほどの部数になり発売後1年経ち多くの人にお読みいただきましたが,一冊通じて読めば「箇所の言わんとすることが架空のフレームワークを使った上での例示」であり,それが「歴史的な差別主義を容認しない立場」であることは伝わっていたと思っています.
しかし、一冊読むことは難しい.なので近頃では上記のように間違った文脈をまず否定し自分の主張を簡潔に伝えることにしています.なぜなら全文は多くの場合入手不可で課金コンテンツに課金するほどの思い入れが炎上させている側にはないし,タイトルだけ流し読む人は印象だけでものを語るので意味はないことが多いです.
しかしながらこういったコンテンツは例えば,日本再興戦略であればNewsPicksであるとか幻冬舎の編集の方々を,文學界であれば文藝春秋編集者の目を通して出てきているものであり,多くの場合切り取りは想定せず「本全体,数百ページの文章としてのコンテンツの長さの中」で理解されるべきものだとして編集されていると思います.(論文ではないものはそういう長さで読むから気づきや娯楽を読めるのだと思います)
【5・どうするべきか】
自分自身の浅学な面に向き合い,言葉回しや言葉遣い,過去の書籍の表現が不十分だった点を反省し,ファクトチェックや撤回が必要な場所については,今後撤回していきたいと考えています.また誤解を与えた皆様には,大変申し訳なく思っております.あらゆる差別に対しては,断固として容認せず,自分自身社会を変えるよう努力し,日々生きています.
がしかし,ヘイトスピーチにしろ肯定的なブログにしろ著書や動画という長いコンテンツの一部をツギハギしたものがシェアされることがあればちゃんと文脈を考えて理解することが難しい.
そしてそういったコンテンツを鵜呑みにしてしまう人が多いのも確かです.それは非常に問題だと思っていますし,反省することも多いです.
しかしながら,コンテンツそれ自体に制限をかけたり,特定のトピックを扱わないことになるとそれはそれで社会の議論が縮小したりコンテンツがつまらなくなったりすると思います.(WEEKLY OCHIAIとかはまさにその奔放さが面白い場所なのだと思います)
だから発信する側も自らのまとまった考え方をきちんと発信する場を作る必要があるのだと思いました.
なので140字では伝えられない内容を書くためにNoteをはじめました.
今年は,そういった意味でコンテクストを補強したり,より詳しく説明したりしてメディアに載るだけでなく自分主体の発信もしていかなければならない.
それは,自分の発信をより強化する意味でもあり,また理解しきれなかった人の誤解を解いたり,そういった目的のための長い文章を書く必要性があると思います.
「140字じゃ足りないし,本一冊は読んでくれない」
自分主体のポジティブな発信ばかりでなく,先の文學界の訂正のように自分のミスや訂正なども含めまとまった文章で伝えるためでもあります.議論に必要なメディアは最低でも4000字くらいの文字数がかけなければ議論できないと思います.
今年は下記の文學界後のやり取りのようなそういったコンテクストを踏まえた建設的な議論ができればそれが幸いです.そういった意味で幅広い議論をしながら実装したり価値を生み出していけることに向かい合うフェアな社会に貢献できることを探していけたらなぁといつも考えています.
年末年始からタイムラインを騒がせてしまってすみません.皆様のご教授されるリンクや情報を見ながらいつも勉強させてもらっています🙇♂️
(↑書き途中なので随時更新しています↓)
【その後】
↑100の職を持つこととしてワークアズライフの説明をするときにストレートに「コミュニティごとの人格を持つこと・セーフティネットを持つこと・複数の職を持つこと」(分人主義などの引用)とすればよかったところだったのですが,100の職=百の姓という考え方から「移動可能で職業差別のない柔軟なカーストや士農工商」を仮定し「知的生産的な職を掛け持つ」のような仮定おいて書いたのが不適切だったと思っています.
↓こっちは意図を理解していただいた例