おとなになっても正義の味方であり続けるということ~コメットショウ感想殴り書き~
あんさんぶるスターズ!!「変身!星々を繋ぐコメットショウ」を読んだ。
私が読む前から様々な感想が行き交っていた本ストーリー。
読み終わったときに感じたのは、「この世はままならねぇ……」ということだった。流星隊が特別かわいそうな目にあっているわけではなく、ただただご都合主義的な救済をくれない、とても現実的な話だと感じた。
同時に、ここ最近ずっと物議を醸している「!!」のストーリーの「モヤモヤ」の正体についてもなんとなくわかった気がする。ということで、これは私なりの備忘録兼、後々受け入れられないストーリーに直面した際に落ち着けるための記録として残しておきたい。
正義という呪縛
流星隊がどうしても縛られてしまうもの、それは「常に正義であらなければならない」という呪縛だ。燐音たちが需要に合わせてCrazy:Bの「文脈」をつくることができた半面、流星隊はできた当初から連綿と受け継がれる「正義の味方」という文脈に則って行動しなくてはならない。
常に正義の味方でいなければならないとはどういうことか。それは「常に間違った行動ができない」という概念の話から、「レッドを中心に5色がそろい、レッドがリーダーである」という形式的な話まで、様々なことがファンから意識されるということだ。当然、構成員である彼らもそれは意識せざるを得ない。自由に活動しているように見えて、もしかすると一番制約の多いユニットなのかもしれない。
今回の悲劇にもそれが大きくかかわっている。
「事務所に逆らって危ない橋は渡れない」「どんなに辛くても笑顔で正しくあらねばならない」「なんの色を身に着けるかがとても重要」
自分たちは正義の味方であると声高に叫べば叫ぶほど、そのコンセプトにじわじわと首を絞められるように、彼らは身動きが取れなくなっていく。流星隊は最初からずっと、そんな爆弾のようなものを抱えていたんだと思う。
自分で切り開いた千秋と千秋を手本にした鉄虎
千秋と鉄虎で大きく異なること、それは「ヒーローという概念をお手本にし、自分でそれをユニットに落とし込んだ」か「ユニットのリーダーであった先輩をお手本にし、その意志を受け継いでユニットを運営している」か、ということである。私はここの違いが、流星隊Nがいまいちうまくいかなかった原因ではないかと考えた。鉄虎が鉄虎自身のヒーロー像を確立し、自分がどうしたいのかを示さない限り、鉄虎が自分自身の流星隊をつくることは難しいのではないだろうか。
ストーリー前半で、この晩夏に流星隊に起きたことが説明された。事務所から2つの流星隊を解体し、元と同じ5人のメンバーに戻してそれ以外のメンバーを子会社的なユニットに振り分けろという御達しがあり、それに反発した千秋が、自分と奏汰が流星隊から抜けると宣言したという。
このとき、なぜ鉄虎は千秋と奏汰が脱退することを許さなかったのだろうか。正直言って、自分がリーダーを引き継ぐ上で先輩というのはとことん邪魔なものだ。ファンから比べられるのは当然だし、自分が決断する際にも「先輩はどう思うだろうか」といちいち考えなくてはならない。レオがほぼ日本にいないKnightsやなずなが大学生をしているRa*bitsとは違い、流星隊は千秋が指揮をとることも可能な状況だ。そんな中でリーダーをやるのは鉄虎にとってもやりにくかったのではないだろうか。それでも、鉄虎は千秋と奏汰が抜けることを良しとしなかった。
水族館で、翠が千秋に忍・鉄虎がどれだけ成長したか、語るシーンがある。「いつまでも自分がヒーローでいるために、俺たちを『守ってあげなきゃいけない弱者』扱いしてさぁ」と言い放つ。
しかしその一方で、褒めるならしっかりわかるように褒めろとも言う。子ども扱いをするなと言いつつ、わかりやすく褒めてほしいとも言う。
抜けるという先輩たちを引き止めようとすること、そして自分たちを子供扱いするなと言いつつ成長は見てほしいと言うこと。ここに私はまだ2年生たちの甘さを感じてしまう。
先輩たちの「大人ムーブ」に振り回されるのはいつも後輩、しかも最近の鉄虎は振り回されてばかりで割に合わない。そういうファンの声も痛いほどわかる。
だが、2年生が自分たちなりの「流星隊像」をもち、そこに責任と覚悟を持つこと、これが鉄虎を中心とした新しい編成の流星隊を確立する上では大事なことだったんだと思う。そしてこの状況で後輩に花を持たせてあげるほど、日日日先生は甘くない……ということらしい。容赦ない……。
レッドの継承は必要か?
それを踏まえて、改めて問いたい。レッドの継承は必要なのか?と。
コメットショウでは、いずれその時が来たら鉄虎にレッドを継承する、ということになっていた。しかし、鉄虎がなりたいのは本当に「流星レッド」なのだろうか?
鉄虎はずっと「漢の中の漢になりたい」と言っていた。そして憧れの大将が所属する紅月に入りたいと思い、その延長で赤い色にこだわるようになった。黒を身に着けるようになってからもしばらく赤に固執していたことは私も覚えている。
だが、赤を身に着けたからといって何かが大きく変わるのだろうか?
それこそ、翠が言っているように、本来「そんなことはどうでもいい」のではないか。
鉄虎はいつも、具体的な人物に憧れ、そこに形から近づけようとする。しかし、私としてはそれはとても苦しい道のりのように感じてしまう。なぜなら常に誰かと自分を比べ、自分とその人との差に傷つきながら進んでいかなければならないからだ。
鉄虎が自身のこだわりをそう簡単に捨てるとは思わないが、鉄虎がもっと自由に気楽に生きていくために、どうにか「形式にこだわりすぎるところ」を少しでも捨ててはくれないかと思ってしまう。もっと広い世界を見て、君が目指すところは「その人」や「その色」以外にもたくさんあるんだよと、教えてあげたいな……。
社会に出て現実感を増すストーリー
「ズ!!」になってから、彼らは急に大人社会に放り出された。そこではアイドルは「商品」となる。彼ら自身を売り込んでお金を稼ぐのだ。当然、事務所は彼らが上手く稼げるように舵を切る。
翠から散々言われていたが、そうはいっても千秋は自分ひとりで仕事をとってこれるくらいに、高校時代から下積みをしてきた。みんなより一足先に大人社会に足を踏み入れ、そしてその延長で今は売れっ子として活動している。一方で今の高校生たちは、今まで先輩の背中を追ってきたところから急に大海に放りだされたようなものだ。
まだアイドルとしての自分の在り方に迷っている彼らに、自身の市場価値を意識させるというのはなかなか酷な話だ。彼ら自身も、私たちユーザーも、ESビルという突如現れた怪物に翻弄されている。
まるで、彼らを無理やり大人にしてしまう巨大な装置のようだ……。
大人になって変わっていく彼ら。大人になっても変わらない彼ら。どんな物語が待っていようと、私たちはそれを受け入れなければならないのだろう。
ソシャゲという終わらない物語でハッピーエンドは可能か
「みんな笑顔でハッピーエンド」は可能か? イエス。
あんスタにおいて「みんな笑顔でハッピーエンド」は可能か? ……ノー?
ソシャゲという特性上、そこで繰り広げられる物語には終わりがない。永遠に終わらない物語を追い続けるために私たちは課金をしてゲームを進める。だから当然、ハッピーエンドもバッドエンドもない。そこにあるのは終わらない彼らの人生禄なのだ。
コメットショウは比較的後味の悪いストーリーだっただろう。起承転結の「承」だか「転」だかなのだから当然だろうが、やっぱりここで簡単に大団円の最終回を求めるのは私はやめたいと思っている。「ズ!」時代は返礼祭という区切りの時期に無理やりハッピーエンドになっていたが、未来に時が進められた今、卒業という明確な区切りはない。終わりのない人生、社会という大海に放り出されたのだ。
またもう一つ。あんスタが「推し」をつくるコンテンツであるがゆえに、安易にキャラを退場させられないという事情もある。コンテンツの事情にキャラが振り回されることで心を痛めることもあるが、ESビルと同じくハッピーエレメンツも彼らを商品としてお金を稼ぐ企業なのだ。世知辛い。まじ現実。つらい。
だからといって悲観するつもりはない。日日日先生のことだから落とすだけ落としても最後はみんなが笑顔になる方法を考えてくれることだろう。しかし、今回の流星隊の問題は全員が納得する答えにたどり着くまでにかなり時間を要しそうだ。だから、私はエンドを急がない。ずっとモヤモヤしたままでもいいから、彼らのありのままの人生を見せてほしい。
プロデューサーのみんな。
残酷な現実のようなストーリーに傷つくこともあるかもしれないけれど、一緒にがんばって彼らの人生を見守っていこうな……。
ps.この世界のモブについて
最近よく取り沙汰されるのが、この世界のファンやモブアイドルたちだ。ズ!時代に増してモブの存在がとても意識されるようになったと感じる。
今回のコメットショウでも、レッドの鉄虎が見たかったファンはどう感じたのか、子会社グループに分けられたNのメンバーはどう思ったのか、など様々な想像が行き交った。本来モブはフィクションにおいてぞんざいに扱われても構わないものとしてそこにある。しかし、あんスタの場合はストーリーが進むほどにモブが息づいてくるのだ。
現実的で、感情移入しやすい環境が整えば整うほど、そうなっていく。もはやこの世界に本来の意味でのモブはいない。全ての住人がこの世界を生きるキャラクターとして動いている……そしてそれすらも私たちは楽しんでいる。これからは、モブに対しても気が抜けない日日日先生。いつか流星隊Nのメンバーのその後を書いてくれたら嬉しいな。