「86歳、やっとひとり」~ #56 花より男子?
「ちょっと事件があったのよ…。」
母とのシューイチ電話、その日の声はいつもと少しちがっていた。
「お隣の部屋の人が、お風呂で亡くなったの。」
隣と言えば以前廊下でお見かけした元気そうな女性のはずだが、ご病気でもあったのか?母の説明によると、ホームの大浴場でお一人入浴中に意識を失くしたらしく、湯船に浮いてるのが後から入ってきた入居者の方に発見されたという。救急車で搬送されたが、二三日後に新聞の死亡欄にお名前が出たのを他の入居者の方から聞いたそうだ。事故かご病気によるものか詳細はともかく、ホームの皆さんはその件で少々ざわついているという。
「まあ、高齢者だしそういうこともあるでしょうね…。でもちょっとショッキング、特に発見者の方がお気の毒だよね。」
そう応える私に、母も「私は部屋のお風呂しか使わないけど、大浴場しばらくは皆さん使いにくいわよね。」と神妙だ。
母のいる高齢者ホームには、私も羨ましくなるような感じの良い大浴場があるが、驚いたことにほとんどの方が自室のお風呂を利用、その半数近くは週に二回スタッフさんの介助を受けての入浴だという。大浴場に行くのは、健康に自信があるごく数人の方だけというから、亡くなられた方はかなりお元気なほうだったのだろう。
「ほんと、いつ何があるかわからないわよね。そろそろこっちも桜が咲くけど、来年のことなんて分からないし今年はちゃんとお花見しておこうと思って。」
とりあえず母は心身ともお元気なようでホッとした。
こちらに来て一年半ほどの間に5~6人の方が亡くなられているそうだが、ホームとしては入居者のお気持ちへの配慮だろう訃報のアナウンスは一切無いという。人が入っては消え、顔ぶれが替わってゆくのを季節のように静かに見送る、それが高齢者ホームという所なのだろう。
「そうよーママ、私だって毎年そう思って桜はしっかり見に行ってるもん。新宿御苑に行ってきたけど、今年の桜はほんとうに見事よ。絶対見ておいてネ。命のびるヨ!」
「こっちも見頃になったら、クルマお願いして○○園の桜を観に行ってくるわ。一人で行くならコロナもまだ安全だろうし、その方が気楽だから。」と勇ましい母。
ところが、それから二週間後の電話は「お花見行かれなくなっちゃった」と残念なご報告だった。この時期恒例の“血圧上昇”でドクターストップが掛かってしまったという。
「体調は全然いいのよ、でも先生がやめときなさいって。」
薬のおかげで幸い数字も下がってきているというが、まあここは大事にしておきなさいということだろう。「来年もあるから無理しなさんな。」神様がそう言ってくれていると信じよう。
「そういえば昨日ミウちゃんから、あなたたちのお花見の写真が届いたわよ。テレビの周りに全部並べて、部屋でお花見楽しませてもらってるから大丈夫。ありがとうね、桜ほんとうに見事。」
と、ここでいきなり電話の声のテンションが跳ね上がる。
「…ところでだけど、北山さんてこんな立派な方だったのね~ !!!????」
一緒に花見に行った私の男友達のことだ。
「”北山クン” ”北山クン”てあなた言うから全然ちがうイメージしてたわ。まあ、こんな立派な方からミステリー本戴いてたなんてビックリしちゃった!!」
私は心の中で小さくガッツポーズした。学生の頃のままクン付けで呼んでいるが、今では立派な壮年の紳士。母とは警察ミステリー小説の趣味が同じことから、読み終えた文庫本が溜まるとこちらに回してくれるありがたい存在だが、もちろん母と会ったことはない。
「皆で写真撮ってママに送ろうよ。北山さんのお顔も見せたいしネー。」妹のミウちゃんに促されて撮った八重桜満開の下の一枚。背が高くスマートで、年齢が行くにつれ男っぷりが上がってきた彼の写真を見たら母が喜ぶだろうとの彼女の狙いは的中した。「なんて立派な!☆〇□彡××☆〇〇□彡×」を電話の中で三度も四度も繰り返す母の血圧は確実に上がっていたはずで、私はちょっと笑ってしまった。(*後日ミウちゃんからも、同様の報告が。)
「喜んでいただけて何より。GW会いに行けそうもないし、また北山君のご本でも送ってあげるね。」
「ありがとう、よろしく💗」
古本とはいえイイ男から贈られたと思えば気持ちも上がる。桜の下の「りっぱな」お姿でも眺めながらミステリーを愉しんでもらえたら、これこそ命が延びるというものだ。
ホームに入ってから一年半が経ち、何も無さそうでいて、それなりに変化も事件もある母の毎日。人が死のうが、血圧が上がろうが、コロナ禍が続こうが、これからも母にはまわりに左右されること無く、しぶとく日々を楽しんでいて貰いたい。
「86歳、やっとひとり」 ~ 母の「サ高住」ゆるやか一人暮らし
「何も起きないのが何より」の母のたよりと、「おひとりさまシニア予備軍」(=私と妹)の付かず離れずの日乗。
【ここまでの展開】
「最後は(故郷)〇〇山の見えるホームで暮らすの💗 」 60代前半から”終の棲家”プランを温めていた母が、86歳と10か月、ついに東京に住む私と妹を残しN県に移住した。
予想外のコロナ禍の中、母はホームでの二年目を迎えた。
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