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2月14日 義理チョコの渡し方を今一度見直して欲しい。いや、見直せ。

今日は1年間の成果がチョコとなって現れる日だった。病院の売店で働いている。客のほとんどが看護師。俺はモテるために1年間を過ごした。モテようとしているさなかに、給料が入る1年間だったように思う。この1年間で数多くの女の子と話すようになった。店の前を通るだけで、店の中にいる私に手を振ってくれる女の子が大勢いた。今日は敢えてボサボサの髪型で、最寄駅でタバコをいつもより2本多く吸って、遅刻寸前って感じで出勤をした。バレンタイン?ああ、なんだっけそれ?、の完成である。結果から話そう。本名からのチョコは0。つまり私の1年間の異性交友は全て無駄であったということだ。私にはベンチャー気質な一面がある。数字が全てである。認めなくてはならない。カッコよすぎて臆してしまった女子がいたとしても、数字が全てである。隙を作れなかった私が悪い。もう異性とは話さない。私は極端な選択しかすることが出来ない。病気のようなものだと思う。最悪だ。端的に言うとしたら、最悪だ。小さな紙袋を持ち歩いている医者をチラホラ見た。小さな紙袋を持っていないような顔をしていた。消え去って欲しい。
チョコはもらった。本名ではないが、もらった。ありがたい。そこは素直に。ありがたい。

遠くから義理チョコを渡そうとしてくれている女の子が見えた。目が合った。関係直から考えるその右手の紙袋は、私に渡すもので、それが義理チョコであることは分かった。分かってからが難しい。その子がチョコを渡してくれるまで、チョコを貰えるなんて思いもしなかった顔を作らなくてはならない。女の子がチョコを差し出してくれた。おお、ありがとう、マジ?みたいなことを私は言う訳である。とても嬉しいから、その気持ちが相手に少しでも伝わるように最大限に喜ぶのだ。すると、「私からじゃない。」だとか「皆にあげてるんだけどさ」とか彼女達は口走るのである。みっともない気持ちになるのは何故だろう。防御線を引かれてしまうと、素直に喜べないではないか。これまでの素直な喜びの表現を、ぬか喜びにさせまいと、釘を刺されてしまうと私はもう無表情でいるしかないのである。かと言って仏頂面している訳にもいかない。渡した、渡されたという関係性であり、私は渡された側であるからだ。そこには時間や金銭が掛かっている。私は何もしていない。昨晩は鼻をほじりながら、シリアルママという、模範的な主婦が殺人を犯しまくる映画を見ていただけだ。シリアルママが包丁を握り締めながら、住宅地を駆け抜けていくシーンを見て、キャキャキャとしていただけである。ちなみにシリアルママは、コメディ映画のようなものなので、僕の倫理観を問わないで欲しい。とにかく私は感謝しなくてはならないのだ。ならないのにも関わらず、ぬか喜びすな!というのは一体どうゆう了見なのだろう。
「皆にあげてるんだけどさ」「私からじゃないんだけど」と言われ、分かってるよおおおとヘラヘラする俺は、完全に分かってない奴に見える。自分がキモいおっさんと同じメンタルになった。に、させられた。
最初から、渡す時に、「これ、皆にあげてるんだけどさ」「これ私からじゃないんだけど」と言うべきである。それを先に明言して頂かないと、こちらもリアクションに迷ってしまう。迷うと言っても、実際には義理であることぐらい分かる。モノを見れば分かる。こんなことを言わせないで欲しい。君みたいに明るい人は、自殺しそうだと先日言われた。彼女の言葉を突然思い出したのは何故だ。私は家庭が崩壊してから、空気を読むようになった。人の顔を伺うことに人生をかけたと言っても過言ではない。私は空気が見える。最近本当に見える。厳密にはほぼ見える。見えた空気に対しできることは、溶け込むことである。それは内面を殺すこと同義である。表層的なコミュニケーションを取ることに何の意味がある。ない。そこにはチョコ一つない。大勢の人が私を勘違いしている。もうそうゆうのは辞めます。まじくそ。チョコをくれた皆はマジありがとう。
バイト先のおばさんが、どうせ貰えてないだろって、お休みなのにわざわざ店に来て、タピオカを買ってきてくれた。ずっと前から飲んでみたいと言っていたのを覚えてくれていたのだ。マジで泣きそうになった。ありがとう〜!

落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。