【2/26】誰がための罪悪感。罪悪感は「時間」でなく「密度」
何か達成感を得た直後や、とても幸せな時間が流れている時、自分の中でバランスを取るように猛烈にイヤな思い出が流れ込んでくる。
最近それが特に酷い。
自分が何か人にしてしまった、所謂加害者側に立っている時のことが「イヤな思い出」として蘇ってくる。
自分が何かされた場合、大抵のことであれば自分の中でモノの見方を変えるなり、諦めるなり、とにかく何とかなるのだが、誰かを傷つけてしまった、もしくは傷つけてしまったのではないかということに関しては、一向に解決しない。
当時許してもらったとしても、それ以降僕と関わらないために敢えて表面上許しただけかもしれないし、怒ったようには見えなかったが実はとても嫌だったのではないか等、無限に落ち込むことが容易に出来る。
罪悪感というやつだ。
過去の過ちというものは、度合いはそれぞれにしろ、誰にでもある。
それでも皆、生きている。僕は死ぬ気がない。これからも洗濯したり、ご飯作ったり、ゲームしたり、買い物をしたりしたい。
出来るだけ、楽しく長生きをしたい。可能な限りイヤな思いをしたくない。もうどうしようもない過去に付きまとわれたくないのだ。それがどんなに酷いことでも。罪悪感というのは誠に勝手なものである。罪の意識を和らげる鎮痛剤のようなものだ。被害者には一切届かない。
自分の父親が突飛な死に方をした時、遺書の中で、どれだけ僕らに迷惑をかけたことかと謝罪していたらしいが、それにより僕らが楽になったことはない。酷い時間が流れただけである。彼のことを可哀想な人だとは思ったが。
罪悪感は加害者が勝手に感じるものである。
何か人にしてしまった時に、それが悪いことだと思うのであれば、申し訳なさそうな態度を取るが、その後どれだけ罪悪感を感じればいいのだろうか。喪に服すということと似ている。僕は喪に服さない。時間が勿体ないからだ。そして、一々向き合っていたら自分の身体が持たないからである。母が父親の写真を部屋に一切置かないのもそのためだろう。悼む気持ちはある。が、時間の流れがある場所で、僕が呼吸している限り、生きる人優先である。
もしも相手が僕の言動や、行動によって、想像を絶する程に傷ついていたらと思うとゾッとする。ゾッとするだけで、もうどうしようもないのだ。そのため自己満足的に罪悪感を感じ始める。いつまで罪悪感を感じればいいのだろうと疑問に思う。
罪悪感を感じようが、感じなかろうが、もうどうしようもないのであれば、罪悪感を感じない方が楽だ。もちろん反省はする。悪いと思わなければいいとか、そういった事を言っているわけではない。
単純に罪悪感は自己満足に過ぎないし、誰も得をしないので、いらないのではないかと言っているのだ。
とは言っても、自己満足出来たり一時的にしろ罪の意識が和らぐのであれば、罪悪感は必要である。自分のための罪悪感である。
僕は最近まで罪悪感を「時間」で捉えていた。
「長い時間、罪悪感に苛まれていた」という表現を耳にすると、この人は凄い苦しんでいたのだなと情を持ってしまっていたが、大きな勘違いであった。
罪の意識の深度を時間で捉えるから、
「このようなことをしてしまったので、これくらいの罪悪感を覚えなくてはならない」とだらだらと罪悪感を感じ始め、遂には日常生活にまで支障をきたしてしまうのだ。
これより罪の意識の深度は「密度」とする。
あああ申し訳なかった〜〜と思い、罪悪感を感じた瞬間
「申し訳ねっっ!!!」とギュッと強く短く濃く思うのだ。
それで終わりである。
自分は楽しく生きたい。満足したい。過去の過ちを反省し、同じ過ちを犯さないことを誓う。二度と振り返らない。僕にも時間が流れている。過去に足を取られたくない。
申し訳ないけど。僕は僕のことだけを考えて生活する。そのような意気込みがある。
落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。