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1月4日 らんにんぐ、らんにんぐ、言うとりますけども

金が無い、死す、死す、死すの復讐、と店内をのたうち回っていると、どうやったら金が増えるか、ではなく、どう金を使わずに1日を過ごせるかを考えてみるのはどうでしょう?とバイト先のおばさんに言われ、それは目から鱗ですね、考えたことも無かったです、とその名案を早速取り入れて三時間が経った。腹が減る。

「どうでしょう?」なんて言葉で文を閉じられたものだから、なんかとても頭の良さそうな、シュッとした感じの文言に聞こえたのだが、要するに普段食っている飯を食うな、喉が乾いてもグッと堪え水分を怠れ、という暴力的な案に過ぎないのだなと今更になって気がつく。

金を使わないというのは金を使わなかっただけのことで、結果的に金が増えているかというと一切増えてはいない。本来買っていたであろう唐揚げ棒を華麗にスルーすることで、百二十円ばかし儲かったな、えへへ、という考え方なのだろうが、実際その時自分が我慢出来た訳だから、「どう金を使わずに1日を過ごせるか?」という思考法を持ってなくとも、我慢出来たのではないかと思うと、えへへ、という気持ちになれないのである。
困ったものだ。

腹が減ったらどうしたら良いか調べると、「ランニング」が良いという記事が出てきた。空腹感をごまかせたり、ポジティブになれたりだとか様々なメリットがランニングにはあるらしい。
つまり走ると阿呆になってしまうということである。自分が空腹であることを忘れてしまうのは人間にとっていうか、生物にとって危機的状況にあると言っても過言ではない。餓死の原因が、外を走り回っていたから。なんてみっともなくて御免なのである。
「ランニングをするとポジティブになれる。」という文言をこれまで幾度となく見てきた。外を走っただけでプラス思考になれるような人間、または外を走っただけでプラス思考になれるのではないだろうかと思える人間、は元々おめでたい人間なのではないだろうか。現に金が無い、腹が減った、ならば外を駆け回ろう、ああ走った、走った、万事快調、万事快調、明日は百万ゲットな日、という思考は非常にポジティヴだが暴力的にも思える。私は運動を得意としている人が、あまり得意では無いのだがその理由もそのプラス思考云々にあるように思える。強引に要するに暑苦しいのだ。嘘つき。
私が求めているのは、プラスでもマイナスでもなく、事実である。腹が減ったなら腹が減ったと思いながらなんとかしたい訳であり、腹が減っていないことにしたくはないのだ。
ああ、金が無い。腹が減る。毎日は楽しい。Netflixや図書館がある。なのに金が無い。何をすればいい。ひとまずこのままバイトをしよう。日記を書こう。疲れた。眠くない。納豆を買いに行こう。

落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。