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11月14日 顔に一本の糞が横わっていて。

自分の顔に一本の糞が横たわっていて、その堂々足る有様に驚き、糞の先が少し鼻に入っているもんだから、臭くて臭くてたまらない訳で、何をしていても私の顔には一本の糞が横たわっていて、例えばベランダから夕日を眺めこんな世界はクソだと、オレンジ色の空に向かって唾を吐き、その唾が自分の顔にかかり世界を憎みながらも、ああ、私は悲劇の渦中、その中心に突っ立っているヒロインよろしく、なんて可哀想な人間なのだろうとセンチメンタルな気持ちになり、つい一筋の涙がホロリ頬を伝うも、その涙が地面滲むことなどは決してなく、私の顔面の上で大仏のように横たわる巨大な一本の糞へと流した涙は向かっていくのである。

医者に行くと「先天的なものですね。」と言われ、半ば愕然としながらこれからのことを考えた。周りを見渡しても、私と同じように顔に糞を乗せている人間などはおらず、どう考えてもこれは弱点であるなと思った。

弱点やネガティブな要素を「一つの個性だ。」と言う人間がいるが本当にそうなのだろうか。半端な自己啓発で弱者から金を巻き上げている阿呆に、「顔に一本の糞が横たわって取れません。」という相談をしてみたいものだ。
「その糞はあなたの個性です。」と糞を乗せた私の面に向かって言えるのだろうか。言えるであろう。奴らは無責任な人間である。自らの弱さを他人に押し付け、そして引きずり込み、弱みに漬け込み金を稼ぐ。心中しているようにしか思えないなあ。とほほ。
この糞は個性ではなく、私の性質のようなものである。逆張りは許されない。皆の顔と私の顔は一本の糞によって大きく異なるが、「特別なオンリーワン」などとは思うことは出来ない。花屋に咲いている花がどれも綺麗な訳がないのだ。そう思えたのは、その日そういった気分だった。というだけである。私は足元にある雑草のみを踏みつぶしながら職場に向かう日もあれば、労働から解放された帰り道には、ああ、なんと健気な、と雑草の写真を撮影したりすることもある。
では、他を磨けばいいか。顔面に横たわる糞をカバー出来るような要素を自分の中で構築していけば、誰の目にもこの一本の糞は映らないであろうか。内面を磨けば、一本の糞が横たわった顔面のことなど誰も気にしないであろうか。
そう思って私は、ボランティアに参加したり、席を譲ったり、信号を守ったり、誰彼構わず無闇にやたらと優しさをバラまいたりしたのだけども、内面を磨けば磨く程、精神的になればなる程、この一本の糞が顔面から浮き出て見えてくるのは何故なのだろうか。

職場で私は顔面に一本の糞が横たわっていないことになっている。明らかに私の顔には一本の糞が横たわっているのにも関わらず、同僚の連中は「今日クマ酷くない?」だとか、「なにそれ?ものもらい?」などと言ってくるのである。
「この一本糞を見てよ!!」と大声をあげたくなるが、これはパワハラに当たるかもしれない。冗談の「じ」の字も言わない上司が、勇気を持って昨日の夜から決めてきましたみたいな、満を辞した顔で「俺ハゲてない?(笑)」と言ってきたら、私は労働基準監督署に直行するであろう。

私は私なのである。一本の糞が顔面に乗っていて、そうただ乗っていて、これをどうすることも出来ず、排除もしくはカバーすることもなく生きていくしかないのである。
他人にどうこう言われる筋合いはないし、私も私で受け入れるしかないのだ。それを他人に押し付けることも私はしない。

落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。