映画「名付けようのない踊り」が超よかった。
昨日「名付けようのない踊り」という映画を観た。
田中泯という舞踏家の2017年から2019年までの二年間を撮影したドキュメンタリー映画だ。
めちゃめちゃおもしろかった。
田中泯のダンスについては、彼が躍っているところを見てもらうのが一番いいと思う。
映画の冒頭で「場踊り」を見たときは、正直おもしろいなと思った。でもそれはお笑い的な観点から見た「おもしろい」であり、芸人特有の「最もおもしろくない見方」をしてしまっていた。つまり僕は俯瞰で彼の踊りを見た。
水野しずが前に「「刃牙」に出てくる登場人物達の真剣(マジ)を初見で笑いながら見るな。俯瞰して見るとしても二週目からだ」的なことを言っていて大いに納得した記憶がある。えいちゃんとかマイケルジャクソンってマジすぎて確かにおもしろいんだけど、そのおもしろさは「お笑い的な観点」からくるものではない。こっちも真剣にぶつかれば、もっと奥に俯瞰では決して掴み切れない「おもしろい」がある。
田中泯が場踊りを始めた3分後には彼から目が離せなくなっていた。本当になにがよいのかはよくわからなかったけど、圧倒的な凄みが画面から溢れ出ていたのは確かだ。
「ダンサーの身体はダンスをするためにできている身体だ。」と彼は言っていた。1985年から今に至るまで山村へ移り農業をすることで、肉体を作っている。彼の踊りを見るとその意味が本当に分かる。言語化することができないのだけど確かに分かる。生きるための肉体が躍っている。迫力があった。
彼が作中で言っていることはものすごく感覚的なことだったりするのだけど、彼の発言や踊りがスピリチュアルなものでないのは(そこが超よかった)田中泯の身体に「生活」というか「生きる」ということ「現実」が染みついているからだと思う。そこに説得力がある。
作中「踊りは言葉を待っていた」という表現がでてくる。言語を不要と言い切らない点も信頼できる。彼が言葉を不要とするのであれば、公演タイトルは毎回無題でいいはずだったと思う。
順番の話。言葉より前に人間は身体でコミュニケーションを取っていたということを彼は言っている。
「踊り」と「言葉」とは写真とテキストの関係のようなものだろうか。
彼の踊りに対する「言葉」とはまさしくこの映画「名付けようのない踊り」のことなのではないかと思った。
田中泯が女性の舞踏家に踊りを教えている場面があった。
壁の隙間に入り込んでいく(実際壁に隙間はない)ところで、彼は「終わるのが早すぎる」といった。それは言葉でのレクチャーだった。「自分の中で解決してから先に進まないと、見ている側が幻想から引き剥がされてしまう」みたいなことを言っていて、なんか分かんないけど分かるぞって感じだった。テクニック的な話なのかどうかも謎だった。
この映画は基本的に「なんか分かんないけど分かるぞ」の連発。故に観ている側も感覚的になっていくのかもしれない。
「田中泯が躍り終えた直後の瞬間」は、この映画の最後に見ることができる。彼が一言めに発した言葉に僕はかなり痺れた。
波打ち際を田中泯が歩いているラストシーンで、僕はなんとなく海を見ていた。波が押し寄せることに意味や疑問を感じずに、ただ海を見ていた。その感覚が「田中泯の踊り」を見ている時の状態と全く同じだと気づいた時に、僕はとてつもない感動を覚えた。エンドロールでめっちゃ拍手した。
自分は海を見ている時「海はなにを表現しているの?」とは思わない。
海を見てなにかを感じ取り、言葉で考えることはある。それは田中泯の踊りを見ている時もそうだ。それが合っているかどうかとかは大した問題ではない(自然にそもそも合っているもクソもない)。自分を通した上で「彼の踊りにあるなにか」を感じ取ろうとしていたことが重要なのだと思う。そのことを作中で田中泯は「観客も踊る」と言っていたはずだ。
彼は「風景」のような踊りをする。
落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。