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人生の意味と、「問え!」と鳴く「問いプードル」 〜永井玲衣さん・寺尾紗穂さんのトークイベントから感じたこと〜
人生の意味とはなんなのだろう。
SPBS TOYOSUで行われた、哲学者の永井玲衣さんと音楽家・文筆家の寺尾紗穂さんのトークイベント「かけがえのない生の断片の保存」に参加した。
生の断片の保存、というテーマを中心に展開された「保存とは」「継承とは」「対話の持つ力」「聞くこと」などについてのトークは、穏やかながらとても刺激的で、やさしく心を揺さぶられるような時間だった。
その中でも特に「人生の意味」についてのお二人のお話が、強く心に残っている。
「人生は、知らない人と出会って、知らないものを見て、自分がいかに無知であるかを知るため。そしてそこから価値観を更新していくためにある」
寺尾さんがイベントの中でこのようなことをおっしゃっていた。
この「価値観を更新する」という言葉を聞いた時、ハッと目が覚めるような気分だった。
その言葉を聞くまさにそのときまで、価値観とは、地盤のように踏み固めていくものだと思っていたからだ。
生きていく上で、価値観はベースになる。
だからこそ、文字通り「ベース」となるように、足場として機能するようにしっかりと固めて、揺るがぬものにすることが大切だと思っていた。
それはきっと、学校での「自分を知りましょう」という教育だったり、もはや就職活動の必須科目と化した「自己分析」という慣習だったり、そうしたいわゆる「キャリアデザイン」のルートを通過していく中で、自然と「そういうもの」として受け止めてしまっていたのだろう。
でも「価値観を更新する」というのは、それとは異なる考え方だ。
土を踏みしめて地盤を固めるのではない。
例えるなら、さまざまな土を継ぎ足して、ブレンドすることで足元の土を絶えず新しくしていくことに近いと感じた。
知らない人に会って、聞いて、話す。
そうすることで、自分の畑に新しい土を足す。
他の人の畑から少しスコップで土をもらってくるように。
そんな工程を繰り返し、畑の土をどんどん新しくしていく。
すると、自分ひとりでは得られなかった経験や考えに基づいた栄養をたっぷり含んだ肥沃な土壌が出来上がっていく。
そこに種を植えて水を撒けば、見たことのない花が咲き、かじったことのない実がなる。
固めた地盤の上に立派な家を建てるのも悪くないし、当分の雨風はそれで凌げるかもしれない。でも、年月が経てばいつかは老朽化して、あちこちにガタがくる。
それに対して、雨が降っても風が吹いても、年月が流れても、やわらかく変わっていく土壌の上になにかが芽生えるのを待つこと、そしてその芽生えたなにかを愛でていくことは、なんだか持続的でやさしい。
国内外問わず、さまざまな方のお話に耳を傾けてこられた寺尾さんは、まさにそれを体現されているように感じた。
変わり続けることこそ、強さなのかもしれない。そう思った。
同じく人生の意味について問われた永井さんは「生きていればうまくいかないこともあるけど、『なんかいいもの見たな』と思うようなできごとの連続の中に、生きる意味を見出す」というようなことをおっしゃっていた。
誰目線だよ、と思われるのを承知で言うと、永井さんらしい考え方だと思った。
それは、永井さんのそうした考え方に自分自身がすごく救われてきたからだ。
永井さんの著書『水中の哲学者たち』に出会ったのは、2022年の夏頃のことだった。
ちょうど「人生とてもしんどいな」「生きるのってむずかしいな」と考えてしまう時期で、過去にも未来にも光が見えないような気持ちになってしまっていた。
そんな中で手にとった永井さんの著書から見えてきたのは、日常、そして私たち自身の存在の愛しさと、それを味わって生きていくことの素晴らしさだった。
まるで世界を見るレンズの曇りを拭ってもらったように、あれほど澱んで見えていた世界がみずみずしく感じられるようになった。
それは同時に人生を救ってもらったということでもあった。
「美術館の展示を見に行ったのにやってなくて落ち込みながら帰っていたら、生の大根を手に持って歩いているおじさんに出会った」
このような「なんかいいもの見たな」のエピソードを、イベントの中でもいくつか話されていた。
聞いているだけでわくわくして、なんだか世界を愛したくなるようなエピソードばかりだった。
日常にはきっと「いいもの」があふれていて、でも私たちはそれを見落としている。
いや正確には、目にはしているものの気づかないうちに取りこぼしているのかもしれない。
「いいもの」はそれぐらい小さくて、か細くて、私たちの意識の頬のあたりをかすめて通り過ぎていく。
でもひとたび捕まえてみると、日常が、あるいは世界が急に輝き出したりする。予想だにしなかった自分や他人の姿と目が合ったりする。
急いでいる時ほどPASMOの残高は足りないし、新しいシャツをおろした時ほど食べ物をこぼすし、シャンプーはやたらと目に入る。
なんだかみんな急いでいるし、なんだかみんな怒っている。
そんな毎日だからこそ、小さなことを「なんかいいもの見たな」とおもしろがって生きていきたい。
「いいもの」に出会ったとき「おもろいやん」と思える心を持っていたい。
そして同時に、そんな「なんかいいもの見たな」を言葉にして書き残し、自分なりに保存してみたいと、永井さんのお話を聞いて思った。
だから、この文章も書いてみた。
イベントの終了後、お二人のサイン会が行われた。少しお話ししながらサインをもらい、その場を離れる。
本を開いてみると、永井さんのサインには、もふもふの犬の絵が描かれていた。
名前は「問いプードル」。つぶらな瞳で「問え!問え!」と吠えている。
思わず笑みがこぼれてしまった。「いいもの見たな」とさっそく思った。
それにしても、お二人の言葉から考えたことをつらつらと書いてみたけれど、自分にとって人生とはなんなのだろう。
考えてみると、人生にまつわる好きな格言はいくつかある。
例えば、映画『フォレスト・ガンプ』の「Life is like a box of chocolates」という有名なセリフ。
あるいは、Nulbarichが歌う「Life is like a sweet and sour candy」という言葉。
それらを並べて眺めてみてはいるものの、では自分の人生において「Life is」の後に続く言葉がなんなのかというと、正直まだわからない。
そこで思い出す。
永井さんは「生きること」についてこうもおっしゃっていた。
「まだ知らない、わからないという状態をウロウロすること」
わからないからこそ、探す楽しさがある。
わからないからこそ、わくわくする。
そのわくわくを感じつづけられたら、世界を、人生を、愛しつづけられる気がする。
しょうもないことも、まぶしいほど輝いているものも、なるべく目に焼き付けて、そしてなるべく書き残したい。
だから今日も、街に出る。
「問え!問え!」と吠えながら街を軽やかに駆ける、問いプードルと一緒に。