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青春の吹奏楽部 ~中学編~

おちゃっちの地元

わたしの地元は香川県仲多度郡多度津町。
多度津町立多度津中学校(通称多中(たちゅう))、香川県立丸亀高等学校(通称丸高(まるこう))を卒業している。

小学校高学年の頃から丸高に憧れがあったわたしは、6年生最後の春休みに丸高吹奏楽部の定期演奏会を一人で見に行った。
「このおにいさん、おねえさんたちみたいに、わたしも丸高の吹奏楽部で活動がしたい。」
そのために中学では勉強を頑張り、吹奏楽部にも入るんだ、という決意を抱いて、多中に入学した。

多度津中学校

多中での、わたしの学年の生徒は約190人だったと記憶している。
多中はとても治安の悪い中学校だった。

授業中に爆竹が鳴る。
トイレの便器の中はタバコの吸い殻だらけで、詰まって流すことができない。
タバコの煙で火災報知器が鳴ったり、廊下の防火ドアが閉まったりして、通路が塞がれる。
学校の上階から道路に走っている車に向かって、給食のミニトマトを投げる人がいる。
教室のガラスはしょっちゅう割られる。
不良が廊下を自転車で走る。
教室のコンセントでガラケーを充電する。
いじめられた女の子がパンツを脱がされて、ノーパンでトイレに閉じこもって出られない。
そのパンツを教室でキャッチボールみたいにして遊んでいる。
またいじめられた別の女の子が「お前の席ねえから!」と机と椅子を廊下に投げ出され、面白がった不良が椅子や机を2階から落とす(北乃きい主演の『ライフ』の世界だ)。
靴箱からは頻繁に靴が盗まれる。

挙げだしたらきりがない。

中学一年生 吹奏楽部に入部

そんな毎日が騒がしい多中で、わたしが部活動に選んだのは吹奏楽部だ。
入部してすぐに廊下で練習していたら、陸上部の顧問がわざわざやってきて「○○さん吹奏楽部に入るの?もったいないなあ・・・」と言ってきた。
わたしは小学5・6年生の頃に陸上で走り幅跳びをしており、小6の頃に両ひざがオスグッド・シュラッター病になってしまった。
おかげで、それ以降の運動はドクターストップがかかり、運動部に入ることはできないのだ。

入部する段階で、希望楽器を記入するのだが、
わたしは第一希望にトランペット、第二希望にサックスを書いた気がする。
でもどちらも希望は叶わなかった。
みんなどんどん楽器が決まっていくのに、わたしだけ最後まで楽器が決まらなかった。
そして最後に余った「ユーフォニアム」がわたしの担当楽器となった。


世界一えろい音色が鳴るユーフォニアム

ユーフォニアムは中低音が鳴る金管楽器で、とても柔らかい音色が特徴だ。
トランペットが主旋律(メロディライン)を吹くなら、ユーフォニアムは対旋律(オブリガート)を担当する。
ベースを担当することもしばしばあるが、縁の下の力持ちにしては対旋律で目立てるという美味しい楽器である。
交響楽団(オーケストラ)にはユーフォニアムは編成にはなく、吹奏楽ならではの楽器なのだ。

初めは余りものの楽器を担当することになった・・・と肩を落としていたが、練習するうちに「わたしにはユーフォニアムしかない」と思うようになっていった。

中学二年生 人間関係前途多難

ユーフォニアムのパートには二個上に先輩が一人いたのだが、一個上にはユーフォニアム担当の先輩がいなかった。
だから、1年生の頃の3年生が卒業してしまってからは、わたしが一人でユーフォニアムパートを背負うことになった。
まだまだ教えてほしいことはたくさんあったのに、あっという間に1年後輩にユーフォニアムパートの女の子が入ってきた。

ユーフォニアムパートは、チューバという低音の金管楽器と、スーザフォンというマーチング用の低音の金管楽器も演奏しなければならなかった。
チューバはとても大きく重たい楽器なので、椅子に座らなければ演奏することができない。
毎日廊下に椅子を運ぶのも、他の楽器の部員と違って苦労した点である。


ロータリータイプのチューバ

運動会では、チューバを持って立っては演奏ができないので、スーザフォンを演奏することになった。
高校野球強豪校のスタンド席での野球応援を見たことがある人なら、一度は目にしたことがあるのではないだろうか。
中学生女子の小さな体で左肩だけで重量を支えなければならないので、とても大変だった。
楽器をケースから出すのも片づけるのも、大仕事だった。


頭の上にベルがくるスーザフォン

中学二年生のときは、ユーフォニアムとチューバの二刀流で練習を行っていた。
ユーフォもチューバも(スーザも)フィンガリングが同じであり、マウスピースの大きさが異なるだけなので、楽譜が大きく異なることはなかった。
楽器が大きい分、肺活量だけは鍛えなければ演奏ができないので、基礎練習ではメトロノームを使って念入りにロングトーンの練習をしていた記憶がある。

話は脱線するのだが、わたしは女子部員同士のじゃれあいがあまり好きではなかった。
わたしには「丸高に行く」という明確な目標があった。
学年190人中、校内の試験で上位一桁に入っていないと難しいと言われている丸高に入るために、自分の勉強の時間を邪魔されたくなかった。
テスト期間中こそ、部活動もなくて時間があるから遊びに誘ってくれたのかもしれないが、わたしは誘いをなるべく断っていた。当時を思えば、感じ悪く、嫌な奴だったと思う。

それでも、部活動の練習は真面目に行った。
毎日欠かさず、朝練をサボらず、夕方の自主練にも取り組んだ。

2年生の終わりごろ、次の代の部長と副部長が決まる。
わたしは、「部長になれるのはあなたしかいない」と言ってくれた吹奏楽部顧問(指揮者)と、一個上の代の部長・副部長の推薦で、部長を務めることになった。

ある日、同期の中で一番権力をもっている「K.Y.ちゃん」に呼び出された。
厳密には、「K.Y.ちゃん」から指示を受けた「Y.Nちゃん」に呼び出された。
「今日のいついつに、第二音楽室に来い。」
言われた通り向かった私に待ち受けていたのは、同期の部員10人中(女子8人、男子2人)男子を除いた私以外の7人の女子。
わたしは、7人の女子が円を囲んでいる真ん中に座らされた。
何が始まるのかと思ったが、薄々予感はしていた。
わたしに対する不満を一人一言ずつ、順番に言っていくのである。
何を言われたのかは、はっきりとした記憶が残っていない。
ただ、「真面目すぎてついていけない」といった内容だけは覚えている。
権力者のK.Y.ちゃんからは「部長はあなたじゃなくていい。N.Yちゃんだって毎日サボらずに練習に来てるんだから、N.Y.でええやん。」と。

わたしは、どうしてもコンクールの県大会で金賞を獲りたかった。
わたしがどういう思いで部長を引き受けたのか、K.Y.ちゃんたちは全然わかっていない。
ただ毎日音楽室に来ているだけで部長が務まるのなら、部長の意味はない。
男子たちは音楽室で野球をし、女子たちは音楽室に着いたらまずやることはおしゃべり。
そんなことをしている人たちに「部長に向いてない」と言われて悔しかった。
悔しくて泣いてしまった。泣きたくなかった。
反論したかったけどできなかった。

後々思えば、たしかにわたしはリーダーシップがあって部長に推薦されたわけではないのだろうな、とも思う。
吹奏楽に対して真面目に取り組んでいた部分だけが買われたのかもしれない。
わたしは、自分が部長をすれば、みんなでコンクールで金賞が取れると思っていた。

でもちがった。
わたしは、部員みんなの思いを聞いたことがなかった。
部員たちは、練習はほどほどに、おしゃべりをする時間を楽しんでいた。
真面目にストイックに練習をして、コンクールで金賞を獲ることを目標にはしていなかった。
そんな部員を相手に「練習をしろ」と言ったところで、ついてきてくれるはずがない。
わたしには、リーダーシップがなかった。
「コンクールで金賞が取りたい」という独りよがりが原因の行動しかしていなかった。
しかし、わたしは部活動の部長を務めるというのは、みんなから好かれるためではなく、嫌われ役を買って出る行為であり、唯一結果の残せるコンクールでいい成績を収めることを目指すことだと信じていた。
多中の吹奏楽部は、わたしの目標にそぐわない環境であっただけのことだ。

吹奏楽コンクール

吹奏楽部では、夏休みにコンクールの県大会に出場する。
コンクールの結果には「ゴールド金賞」「銀賞」「銅賞」の3つがあり、「ゴールド金賞」に選ばれた学校のうち、上位校のみ、四国大会に進むことができる。
吹奏楽のコンクールは、出場校のうち「1位が金賞、2位が銀賞、3位が銅賞」というわけではなく、だいたい出場校の3分の1ずつ、が金・銀・銅に振り分けられる。
ちなみに、次の大会に進むことのできない金賞のことを「だめ金」と呼ぶ。
言い方は悪いが、「銅賞」は参加賞みたいなもので、「下手くそでしたね」と言われるようなものなのだ。

私が中学2年生の頃に出場した吹奏楽コンクールB部門では、銀賞だった。
1個上の先輩たちが「銅じゃないだけええよな、銀で十分がんばったわ」と話していた。

わたしは、どうしてもコンクールの県大会で金賞を獲りたかった。

中学三年生 部長を務める

部長は、雑務という仕事もある。

  • 部費を集める

  • 毎朝の朝練前に職員室に音楽室の鍵をもらいにいき、音楽室を開ける

  • みんなの前に立ってチューニングの指揮を執る

  • 部員の点呼をする

  • その日の練習メニューを考える

  • 廊下での筋トレ(主に腹筋とブレスコントロール)で掛け声を出す

  • みんなが帰ってから、練習場所全ての扉と窓の戸締りをする

等々。

副部長は「Y.M.ちゃん」だった。
わたしは、同期の部員の中で「Y.M.ちゃん」と一番コミュニケーションを取るべきだったと後で気づく。
吹奏楽部ではない友人を通して「Y.M.ちゃんが、おちゃっちにはもっと頼ってほしかった、って言いよったよ」と聞いたのだ。

Y.M.ちゃんは、たしかに同期部員の中では一番話しやすい立場なはずだった。
しかし、わたしは、Y.M.ちゃんはK.Y.ちゃんたち側だと思っていたので、心を開いて話をすることができなかった。
さらにわたしの責任感の強さもあって、人を頼るということを知らなかったのである。

もうちょっと、Y.M.ちゃんとお話をする時間を作ってもよかった。
Y.M.ちゃんに相談をすれば、みんなとの意思疎通も図れたかもしれなかった。
でも、Y.M.ちゃんから直接わたしに対して「もっとわたしを頼ってよ」と言ってくれたことは、一度もなかった。
それほどまでに、わたしは独りよがりだったのだろうか・・・。

中学三年生、自分たちが年長者で出場した夏の吹奏楽コンクール県大会では、銀賞だった。
金賞を獲ることはできなかった。

多中吹奏楽部の直属の後輩

ユーフォニアムパートの直属の後輩に、一個下に「S.O.ちゃん」、二個下に「N.N.ちゃん」がいた。
N.N.ちゃんは、わたしが多中を卒業して2年後に、多中吹奏楽部の部長となった。

N.N.ちゃんは、わたしと違って相当部員から愛された部長だっただろうと思う。
わたしの代のときと、顧問の先生も変わってしまったが、
N.N.ちゃんが3年生のときに、多中の吹奏楽部はコンクールで金賞を受賞した。
部員も、ほぼ倍の多さにまでになり、規模が大きい部となっていた。

わたしはその記事を地元香川の新聞で読んだ。
真ん中には、N.N.ちゃんが映っていた。
わたしが高校2年になったときのことだ。

羨ましいなあ、と思った。
わたしがN.N.ちゃんの代に多中にいられればなあ・・・とも。

でも、わたしはわたしにしかできない経験を中学時代にした。
悔しい思いしかしなかったけれど、演奏する楽しみはいつも忘れなかった。
毎日自分が演奏する課題曲の音源を聴きながら、勉強した。

中学で叶えられなかった目標が残ったからこそ、丸高では絶対にコンクールで金賞を獲るんだと。

次回、青春の吹奏楽部 ~高校編~ へと続きます。
「S.O.ちゃん」も「N.N.ちゃん」も丸高の吹奏楽部で再会することになります。
ここまで読んでくれて、ありがとう(*^^*)

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おちゃっち
大切なお気持ち、大変うれしいです。 ありがとうございます。