あんなに手触りのいいモノをわたしは他に知らない
いつさわっても、やわらかく、あたたかく、なめらかで、ふわふわしていいる。この素敵なもふもふは人生の大半わたしのそばにいた。これからの人生もこの子がいれば他に何もいらないと思えるほどには素晴らしかった。
飼っていた犬が死んだ。16歳と8カ月だった。犬にしては長生きな方だ。病気をいくつも抱えていて、毎日大量の薬を飲んでいて、あばら骨が浮いていてたけど、なんとなく20歳くらいまで生きると思っていた。寿命を分けてもいいからずっといてほしいと思ったけど、死ぬときはあっという間だった。
犬がうちに来たのはわたしが8歳の頃だったので、人生の2/3は犬が家にいたことになる。休日遅くまで寝ていると吠えて起こされたし、寒い夜は布団に入れろと吠えて起こされた。眠くて邪険に扱ったこともあったけど、いつも家に犬がいるというのはとてもいいことだった。帰ってふわふわの毛を撫でるだけで嫌なことはめちゃくちゃに減る。
それに、人生で大事なことは大体犬が教えてくれた。いてくれるだけで嬉しい気持ちも、いなくなることの絶望感も。終盤になるにつれて育児や介護の大変さも。正直、亡くなった存在を悼むという気持ちも、今回初めて理解した。きっと犬がいなかったら大切な存在という概念すら知らなかったし、人の気持ちも分からなかったと思う。犬には感謝してもしきれない。
亡くなって火葬場に連れていくまでの間、犬はソファの上にいた。どんどん冷たくなっていったけど、毛はやっぱりやわらかく、なめらかで、ふわふわしていた。死んでいるのにあまりにもかわいいから、まだ呼吸してるんじゃないかな?と何回か確かめたけど、残念なことに気のせいだった。
犬が死んでも、思ったより悲しくはない。というより、実感がなかった。来週には49日を迎えるけど、今もない。ふとした瞬間に犬の様子を見に行ってしまう。それに、ずっと生きていてほしかったというのは少し嘘かもしれない。数年前から目も見えず耳も聞こえず、後半は足が悪く寝たきりだった。生きているのは苦痛ではなかろうか?いつもちょっとだけ不安だった。死んだ時、楽になったんだなあとホッとした自分もいる。
犬飼いは、犬が亡くなった時に「虹の橋に行く」という言葉をよく使う。天国に行くための虹の橋があって、飼い主が来るまでその手前で遊んで待っていてくれるらしい。わたしが(天国にいけるかはおいといて)虹の橋に行くのは何十年後だろう。長いなあ。