嫌い合うことを避けたかった
世界は全部繋がっているのに、何故戦うのかなって、子供の頃よく考えていた。
残念ながら今は繋がっている感覚すらない。でもあの感覚を知っているから、戻りたくて探している。あの頃に戻りたくてあがいている。
学校ではいじめや差別をしないように教育されてきたので、そういう話を教えられたら、いじめ良くない。差別良くない。って、題材に似た事例であればちゃんと教えられた通りに考え直すことができると思う。
でも、いじめる側がいじめてやろうと意図するのを事前教育で一部思いとどまらせることはできても、そのつもりがない人を何とかするのって難しい。
同級生から金を奪われたことがあります。
めちゃくちゃ嫌だったけれど、それでもいじめではないらしい。
その子は友達が元気がないのを見て今すぐプレゼントをしたくなって、たまたまそこ(私)にあった金を使ったというわけでした。
(最悪なのはその子と私が友達じゃなく、貸してと言われたはずが返って来ず、しかも中坊のなけなしの1000円だったこと。)
正義の敵は正義だって聞いたことがある。人間はジャッジをしてしまうから揉めるんだと。
本来どっちが良いとか悪いとかそんなものは本当はないんだと、ただの現象だと。
私もその見方を一応知ってはいます、完全には身についていないけれど。
それで、できない人達とはどうやって過ごせばいいんだろう?
一体いつジャッジは始まったのかな、物心がつく幼稚園頃だろうか。
あの子が泣いている、うるさい。私が泣いている、甘えたい。
お友達におもちゃを奪われて悲しかったが、お友達は嬉しそうだった。
砂山を壊して気持ち良かったが、作ったお友達が泣いた。
オタマジャクシのヌメヌメを洗っていたら内臓が出てきた。それを見た子はドン引きしていた。
誰かから鼻に新聞紙を詰められて笑っていたけど、取れなくなって大人が集まって来て揉めた。
これはやっていいのかな、これはやっちゃいけないのかな。自分なりに少しずつ覚えた。
お母さんの真似して泣いている子の頭を撫でたら先生に褒められた。いじわる言ってくる子を押し返したら怒られたので、我慢するようにした。
別室で誰かに正座させられて蹴り飛ばされたけれど、先生もお友達も助けてくれなかった。
仲良しの男の子と勝手に結婚式やらされて冷やかされた。
〇ちゃんが誰にも内緒と綺麗な石が拾える場所を教えてくれた。私も〇ちゃんだけに教えるねと綺麗な砂の集め方を教えた。いつの間にか皆が知っていた。
妹が転んで泣いていただけなのに私が怒られた。知恵がついて、親のいない時に妹を全力でいじめた。
子供は純粋で残酷だと大人はジャッジするが、子供の私は人間皆を信用できないとジャッジした。
傷付いた経験は、誰かを大事に扱うのに役に立ったが、自分を大事にする方法は全く分からなかった。
そうやって闇深い私みたいなものが作られたけれど、もしそれらの情報を全部取り外すことができたら、どんな気持ちが残るのかなって。それはきっと、昔のあの感覚なんだろうなって想像がつく。
ものすごく、ものすごーーーく知りたい。
現状はあまりうまくいってない。
ある日ジャッジしないを目標にした途端、葛藤が増えて困った。
自分の怒りや悲しみがあることが当たり前だったのに、それを否定するところから始めてしまったから。
基本的に人と接するとうまくいかない。
いや、その場で無難な振る舞いはできる。なんとかなっている。
しかし常に自分を消費し続けている。
客観的に見て、自分って面倒な人間だなと思う。
何かで自分が傷付いたとしても、相手に悪気がないのが分かるので、もうどうしようもない。
だって私が悲しいことを伝えると、どちらが悪いかという話になってしまうじゃないですか。多分ね。
不確定要素だけで話し進めると、私は傷付いたと伝えた場合、相手が傷付けたことを謝るか、もしくはそんな事に構っていては建設的な話はできないと責められるか、つまりどちらが悪いかという話になると思う。
ジャッジなしで考えると、ただ注意を伝えた相手と、そのLINEの文章を見て冷たいと感じた自分がいるだけ。
それだけの事なのは分かってるんだけど、心が苦しいのを無視できないんだよ…!
冷たいと感じなければいいんだろう、善意だと心から思えたらいいんだろう、そういう人だったらいいんだろう。
やはり自己否定に戻って来てしまう。
一旦忘れてプロジェクトの成功だけに目を向けよう!
とすると胸の苦しさや胃の痛みが襲ってきて、これは身体のダメージを修復する方が先かと思える。
あまねくさんの言うように、良い身体にしか良い感情・良い精神は宿らないってね。
で、今また食事が摂れなくなっています。
ご飯食べてる場合じゃないの、目の前の問題が解決できていないから。
断食の効果を知っているから、数日食べないくらい全然大丈夫!寧ろオートファジーが働いてどこかしら修復されるだろうと気楽に考えていますが、これがまた家族に心配かけるんですよね、「さっき少し食べたよ!」とか嘘つかないとやっていけないんですよね。できれば嘘なんかつきたくないけれど。
結局、私は自分を犠牲にしてまで、皆に何事もなく平和に暮らしていて欲しいのかもしれない。できるなら自分もそうありたい。
苦しみは相変わらずだけど、「合わない人との接し方を学ぶ場」なんだろうというところに行きつきました。もういっちょ経験積んできます。
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