欠点について色々考えていました
三大恐怖症は、高所・動物・雷。
でもそれらはあってもなくても別にどうもない。
動物を見たら噛まれるかもって怖がるのも全然悪くないし、高い所は危ないので怖がって当然だし、雷を怖がる女子は可愛い。(?)
基本的には生活に支障が出ることに病名が付くのかもしれない。
対人恐怖症だったら、生活に支障が出るから病名を掲げておいたがいいのかもしれない。
仕事バリバリできる事務員が悪天候の日に出勤したらお空がゴロゴロ鳴ってるから集中できなくてミス続き…なんてことがあっても、そこでわざわざ精神科行って「雷恐怖症」と診断もらったりしない。
三大恐怖症は許されている。
対人恐怖症は許されないのかな?
ただ私の場合は対人恐怖症ではなく、軽度の社交不安障害に当たるらしい。そこに鬱が重なると最悪。
あとは注意欠如、知らないうちに怪我している。
生活に支障は多少あるけれど普通の範囲で生活できているし、ただの変わり者のドジっ子としか思われていない。グレーゾーンの人間。
何だろうなぁ、普通の範囲って。
誰が決めたんだろうなぁ普通って。
少しずれたら変な人扱いって何でなんだろうなぁ。
何なら、私って変な人だから!みたいなアピールを先にする人までいる。何故そうしなきゃいけない状況になるんだろう。
そして、そういう人見ても全然普通じゃんと私も思ってる。
グレーゾーンという言葉がないと、人に伝わらない。そのままの私を認めてもらえない。皆こぞって普通になりたがる。
どんなにテレビでオンリーワンとか色とりどりとか言っても、全然通じてない。皆できることができないだけで煙たがられて、冷たい視線飛ばされてさ。
普通の人に見える、ということが落とし穴。
じゃあ奇声上げたり独り言つぶやきながら徘徊しないと認めてもらえないの?
というか、ズレをそんなにアピールしないと成り立たないの?
私は私。と私だけが思っても、周りはそうじゃない。
普通の人だと思ってた、と言われた時は崖から突き落とされたような気分だった。
そういうところあるよね!あれみたいだね!と言われた時は、やっぱりカテゴライズされるのかってため息が出た。
複雑だ。
能力の違いに細かくラベル貼らなきゃいけないなんて面倒くさい。
できない人がいたらできる人が代わればいいだけかもしれないけれど、そうだなぁ、私はできる人に何か取り上げられるとちょっと傷付いちゃうな。ありがとうとも思うけれど。分担させてもらえないほど私が劣ってるのか~って。
私もラベルありきで生きてるってことかな。
というか、できないを悪いと思ってるのかな。
そりゃ思うよなぁ、何でできないの?なんて耳タコワードでしょ。
ただ、今の自分にはこれができるできないを自分で理解・判断して、都度人に伝える必要はある。
できないって、できる人を活躍させるのにきっと必要だよね。
事件は探偵のためにある。悪役は英雄のためにある。鬱は他人に優しく寄り添いたい人のためにある。だからできないも、できる人のためにある。
なんて言っても…
やっぱり自分ができる人になりたかった…。
きっと私の中に剝がれないで残ってるラベルが沢山あるんだろうな。自分ができない自分を認めてないんだろうな。
その原因には多分、親の目があると思う。
期待に応えたい。できたことを褒めてもらいたい。できないとがっかりされるし怒られる。そして頻繁にがっかりされてきた、褒められた記憶なんてどっか行った。
社会のテスト3点の記録は私の勲章でもあり汚名でもある。
私は自分が学校嫌いのバカであることをキャラとして気に入っているが、実家にとって恥でしかないこともずっと気にしている。名前も顔も捨てたいくらい気にしている。
私のバカは学研や中央出版や公文式の収入のためにあった。(嫌味)
無駄金使わせて悪かったよお母さん。
そして今は私がお母さん。
子供が何故できないのか理解できないことがよくあるけれど、私の経験と照らし合わせれば、理解できなくともそのままを認めたり、できるまで待ったりする方がいいと気付ける。
私の生きづらさは、子育てのためにあったのか。
いや、そういうことに「できた」んだ。
やっぱり、できないは必要なんだ。
私が持ってる沢山の欠点は、必ずどこかで何かの役に立つ。パズルみたいだ。
役立つ時までは、自分虐めに使わないよう気を付けなきゃ。
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