【日記】エビを育てるポテト屋さん #海野波香のさざめき 【41】
昨日から成果主義について考えている。
成果主義はもっぱら資本主義と結びついて今日の利益を最大化するために機能している。最も利益の創出に供与した者が最も高い評価を受け、その評価を社会におけるステータス指標に用いるという仕組みだ。
私はこれがあまり好きではない。資本主義と結びついた成果主義は今日の利益を最重要視し、社会が見据えるべき明日を失念しているように思えてならない。
たとえてみよう。ここに人気のポテト屋さんがある。フライドポテトやハッシュドポテトが主力商品で、自社の農場で大規模なポテト農家を営んでもいる。市場での需要は高く、店舗での売れ行きは右肩上がりだ。
ポテト屋さんが生産するのはポテト。
10の生産リソースがあれば、そのうち10をポテトに割り当てるのが成果主義的に正しいポテト屋さんの選択だろう。なぜならば、今はポテトを作れば作っただけ売れるからだ。利益を最大化するためにはポテトを作るべきだ。
それが選択と集中だ。
しかし、翌年、大変なことが起きた。かつてアイルランドで流行したようなポテトの疫病が流行し、原材料が生産できなくなって一気に高騰してしまった。
世間は冷笑的で、「疫病対策の企業努力が足りないのではないか」「産業の軸を一本化するリスクを甘く見ている」と今更なことを知ったような口で語りはじめる。
哀れにもポテト屋さんは倒産してしまった。
しかし、10のリソースをポテトだけではなく、小エビの養殖に当てていたらどうだっただろうか?
ポテト屋さんにフライドシュリンプを期待する人は少ない。みんなはポテトを食べに来ているからだ。サイドメニューは主力商品にはなりえない。たまにセットで買っていく人がいるくらいだろう。
しかし、ポテト市場がめちゃくちゃになってしまったとしても、フライドシュリンプは売り続けられる。利益は最大化できないが、そのかわりにポテト屋さんは疫病を駆逐するまでの間フライドシュリンプ屋さんになることができる。
これと同じことはこれからの時代様々な業種職種で起きることだろう。
私は今、社労士を目指している。労働・社会保険の専門家として企業と労働者の間に立ったり、双方に助言を行ったりする。
近年の社労士のうち、企業に勤務する勤務社労士の業務としてよく挙げられるのが給与計算だ。もしかしたら私も今後従事するかもしれない。
しかし、実際に社労士法人の代表から聞いた話では「給与計算のような単純作業は20年以内にAIに代替される」と言われている。もしかすると10年後には手動で給与計算している企業はわずかになっているかもしれない。
そんなとき、調停や他の独占業務を経験していれば勤務社労士はまだ他の業務で役に立つことができる。しかし、ずっと給与計算を主にしていた社労士事務員は、仕事を失うことになるかもしれない。
これはせっかくの専門人材を今日の利益のために使い潰したようなものだ。もし社会が明日の利益を見据えて勤務社労士に様々な経験を積ませていれば、勤務社労士はロングスパンで有用な人材であり続けられる。
選択と集中がポテト屋さんを破滅させる。
社会が選択と集中を唱え、成果主義に基づいて人材を評価することで、明日のために人々は「自己投資」などという欺瞞で覆い隠したサービス残業をしなくてはならない。これは社会に対するサービス残業であり、自傷行為だ。
選択と集中。成果主義。それらはつまり、ガラパゴス化を肯定する論理である。そしてガラパゴス化した社会は外的・内的を問わず変革を要請する何かが訪れた瞬間に崩壊する、極めて脆弱な保守的社会に到達する。
正直に言えば、私は働きたくない。
働きたくないが、生きるためには働かなくてはならない。それも今日働けばよいのではなくて、明日も明後日も働かなくてはならない。
だから、私は生きるために明日も明後日も働ける能力をつけなくてはならない。
しかし、なぜ生きたいのかというと、私は自己投資をするために生きたいのではなくて、本を読んだり、小説を書いたり、歴史や宗教に思いを馳せたり、大切な人たちと大切な時間を過ごすために生きたいのだ。
しかし、その「やりたいこと」に割くはずのリソースは「自己投資」に割かれてしまう。家族との対話よりスキルアップが優先される。それが今の社会だ。
だから、本来「生き続けるために自己投資しなくてはならない社会」とは欺瞞であり、「自己投資にリソースを割かなければ生き続けられない人生」は割いているリソースの分だけ死んでいるも同然なのだ。
成長のための自己研鑽が自己責任の投資でなくてはならない社会は間違っている。それは全く持続的でないし、種の保存に反しているとすら言えるのではないか。
持続可能な社会とは、明日のために社会が人材育成コストを支払う社会であり、それは今日の利益を最大化する社会と真っ向から反する。
どんな明日がやってくるかを誰も知らない以上、選択と集中はなんの意味もなさない。国策として選択と集中を推し進めるのは、全国民の生命を賭け金に競馬の一点買いをするようなものだ。全くもって馬鹿げている。
どうしてこんなことを考えているのか。
仕事をしていると本が読めない。そのことを論じているらしい本すらまだ読めていない。サラリーマンになってから明らかに読書ペースが落ちた。
読書ができない中で、私は「自己投資」のために資格のテキストを読まなくてはならない。ただでさえ払底しかけているリソースを「自己投資」に割かなくてはならない。
もし社会が目標を持って学ぶ者に投資する長期的で持続的な姿勢を持っていたら、働きながら資格の勉強をする必要はない。勉強に勤しむことを社会が要請してくれるからだ。そしてその要請には生活に困らないだけの報酬が含まれるはずだ。
結局のところ、これは私の極めて私的な弱音なのかもしれない。
働きながら、さらに勉強しながら、そのうえで自分らしく生きることなどできない。生存権はそこまでの生き方を保障してくれない。
非人道的に思えるが、あらゆる資本主義社会がこのシステムで回っている以上、この非人道性を認めることは資本主義システムそのものを否定することになってしまう。
「そういうものだから」という諦念で、社会はうっすらと否定することを拒絶している。資本主義が生み出した豊かさを享受している以上、どれだけ生き方が苦しいからといって資本主義を否定することはできない。
精神障害者として社会福祉に救われて生き続けてきた私は、むしろ資本主義の弊害である即物的な価値指標に苦しめられてきたと思う。私は市場価値の低い人材だ。
だからこそ、今の勤め先で高い評価を受け、資本主義社会の一員として本格参入したことで、今までの生き方とのギャップに苦しんでいるのかもしれない。
今、私は職場で期待の若手として育てられている。OJTの最中で、実際に担務を持って責任を負いながら部署内の庶務を積極的に引き受けている。私は意欲的なのではない。明日を生きる糧がほしいだけだ。
有能な労働者になりたいとは微塵も思わない。しかし、できることを増やさなければ停滞の中で沈没するという焦りが私を無理やり有能な労働者に仕立て上げていく。
それを自己投資と称賛する社会が大嫌いだ。やりたくもない自己研鑽で生存のために苦しんでいることを勝手に美化しないでほしい。
今の社会はポテト屋さんに10のリソースでポテトを育てたうえでサービス残業としてエビを育てる努力を求めている。ポテトとエビに4ずつリソースを割り振って、残りの2でのんびり商品開発をしたっていいはずなのだ。
苦しい社会を生きている。