愛に反応しない人たち
私を貶めたサイコパスと思われる人物(A氏)は、ある時、私に「何をもって業務を成功させますか。どうやって周囲を変えていきますか」といった類いの質問をした。私は迷わず「第一に誠意だ」と答えた。それに対するA氏の反応がとても冷ややかだったのを記憶している。
「誠意で人を変えられますか?」「誠意で良くなるんですか?」との返事が返ってきた。「誠意」の大切さは、今まで私が彼に教え、見せてきたつもりでいたものだった。それだけにA氏の反応は私に驚きを与えた。もちろん、技術的な事を疎かにして、美しい心さえ持っていれば、うまくいくという意味ではない。物事はそんな生やさしいものではない。しかし何か発展的なことを目指す上で、そのためにテクニックを行使するとしても、その根底には誠意がなければならないということだ。
実際私は、自分自身の失敗も含め、部下の失敗、上司の失敗においても誠意を持って対応することで、いわゆる外部の顧客との関係を修復改善し持続的な良好な関係を持つことができるようになった多くの経験がある。反対してきた人たちを仲間にできたこともある。「第一に誠意」が大切というのは、私にとって、きれい事ではない、実体験に基づく経験則であり、信念の一つとなっている。
A氏がそれを鼻であしらったのは、驚きではあるものの、人それぞれに考え方に違いがあるから、それはそれで良いだろうとは思った。
しかし今、A氏がサイコパスの可能性がある事を考え、振り返ってみるとA氏が示した態度はサイコパスの一つの特徴的なものだった事が分かった。
書籍『良心をもたない人たち』によると、サイコパスは「愛」「憎しみ」「幸せ」という感情的な言葉に対する反応と、「椅子」「テーブル」「15」という中立的な言葉に対する反応が同じだという。普通、人は「椅子」という中立的な言葉より、「愛」という感情的な言葉に強い反応を示す。しかしサイコパスにとっては、「愛」といった感情的な問題と「代数問題」は同じ次元の問題なのだそうだ。
誠意を大切にしてきた部署で「誠意」という言葉を無視し、馬鹿にするA氏の態度、その理由が今になって分かった。
『良心をもたない人たち』で紹介される3人のサイコパスに共通するのは、「自分の野心を達成するためには、罪悪感のかけらもなしに『どんなことでもやってしまう』点だ」という。サイコパスの周囲の人物はサイコパスが野心を達成する上でのゲームの駒という訳だ。そうするとA氏の反応やA氏の行動はそれと一致しており理解できる。
しかし野心を達成し、一種の快楽を得たとしてもそれは長続きしない。「サイコパスが実際に感じると思われ唯一の感情は、直接的な肉体的苦痛や快楽、あるいは短期間の欲求不満や勝利感から生まれる“原始的”な情緒反応」ということなのだ。
『良心をもたない人たち』は次のような文章で締めくくられる。
「良心をもっていると、あなたは自分の思いどおりにできないかもしれない。… つらい目に遭うかもしれない。でも良心の欠けたうつろな、危険好きの人たちとちがって、あなたの人生にはほかの人たちといることから生まれる温かさがある。そして迷いも、激しい怒りも、快さも、喜びも感じることができる。そして良心があれば、愛という最高のリスクを受け入れるチャンスをあたえられる。良心は母なる自然のよき贈り物だ。その価値は歴史を振り返っても、また身近な日常の中でも、貴重なものであることはまちがいない」
良心をもつことの素晴らしさを自分自身の心に刻みながら、自分が良心をもって良心的に生きているか、自戒しながら生活をしていきたい。