明智光秀の謎② 躊躇なく焼き討ちができた理由
「明智光秀の謎① 前半生」の続きです。
前回はサイコパスの特徴から明智光秀の前半生の謎を見てきました。今回はサイコパスの特性から見た比叡山焼き討ちと、その残酷な所業を解説します。
一次史料に基づく光秀の所業
明智光秀が確実な史料に初めて現れるのは永禄12年(1569年)4月14日付、賀茂荘中宛の木下秀吉との連署状(「沢房次氏所蔵文書」)である。この頃の光秀は織田信長の京都奉行としての役割を担っていたのは確かのようで、それなりの地位をすでに築いていたことがうかがわれる。
それから2年たった元亀2年(1571年)9月12日には、信長の悪行として知られる「比叡山焼き討ち」が行なわれた。この件は信長の非道を象徴するものとされているが、信頼できる史料に基づけば、焼討ちの中心的人物は光秀であった。
比叡山焼き討ちの首謀者は光秀
光秀の直筆による元亀2年9月2日付の「明智光秀書状」に、「比叡山麓の仰木のことは、ぜひともなでぎり(皆殺し)にしよう」と書かれている。焼き討ちが行われる10日前のことだ。当時、比叡山周辺の仰木地域(現在の滋賀県大津市)の人々は織田軍に非協力的であった。そこで「織田軍に従わない連中は皆殺しだ」と光秀が大号令をかけたのである。
多くの創作物語では、比叡山の焼き討ちを行おうとする信長を光秀が諫めようとしたと描かれているが、無慈悲な皆殺しを主導したのは光秀、というのが史実である。信長はさすがに皆殺しのような残虐非道な行為の実行はためらったのだろう。
良心のある人は残酷な行為をすることに、心の痛みを感じる。しかし、もし人に良心がなければ、自分の野心を満たすうえで絶好の機会と思えば、いかに多くの僧侶の死も、住民が苦しみ死に絶えていく姿にも心苦しく感じることなどはない。平然とやってのけられる。
良心は人を苦しめたり陥れたりする行為への歯止めをかける。しかし良心がなければ歯止めはない。これが光秀の恐ろしさであり、強みでもある。
比叡山焼き討ちを実行した年の暮れには、光秀は信長から近江国滋賀郡を与えられ、信長の居城・安土城につぐ天下第二の城と評される坂本城を、琵琶湖湖畔に築城することとなった。比叡山攻略を信長から高く評価されたのである。
信長がしようと思っても、良心ゆえに実行には移しきれないことを、良心をもたないがゆえに、光秀は信長に代わって臆することなく進めることができた。また表面的な魅力と権威を見せつけながら、平然と嘘をつきながらもばれることなく、周りを取り込むことで、信長とその周囲に自分の能力と忠誠心を示すことができた。
こうして、光秀は地方の土豪クラスの出身でありながら、尾張を統一し、足利将軍を凌ぐ勢いを持つ、名門織田家の家臣の中でも極めて高い位置にまで登りつめた。
サイコパスは謀略の天才と化する
もし光秀に良心があれば、低い身分の自分を大抜擢してくれた信長に感謝し、忠義を尽くすことだろう。しかし良心を持たない光秀に、信長の天下取りに向けてさらに精進しようなどという武士の美学はない。この次にくる行動は、偉そうにしている信長にとって代わるという野心に基づくもとなる。
光秀は、信長の恐ろしさや冷酷さを信長に少なからず不満を持っている家臣たちに耳打ちしながら、甘い約束で、静かにばれることなく離反者を作り、見せかけの魅力で自らの家臣となるように画策をするようになっていった。
もちろん、そんな画策をしている間も、信長や信長に忠義を尽くしている家臣たちには、画策が決してばれないように、光秀は誰よりも自分が「信長様に対する忠臣である」という演技を怠ることはなかった。良心がないと、どんな悪だくみをしても、危険な嘘をついても動揺することがないので、疑われたりばれたりすることは滅多にない。見せかけの忠義の演技も光秀には板についていた。
そんな光秀による典型的な犠牲者が荒木村重である。村重の信長に対する反逆は、光秀による謀反と同じように謎とされている。光秀がそうであったように、村重も信長から厚く信頼されていた家臣だったからだ。にもかかわらず天正6年(1578年)に突然、村重は信長に反旗を翻したのである。
◆ 続く
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