ターミネーターの良心
上映中の『ターミネーター:ニュー・フェイト 』を先日観に行った。観た感想を一言で言えば、「とても良い映画」だ。特にサイコパスに関心を持っている今の私の心理状況から、登場人物の行動に共感するシーンが多く、感動的で目が潤む場面もいくつかあった。(以下ネタバレあり、注意!)
過去のターミネーターシリーズ
『ターミネーター2』の正統な続編ということなので、事前に第一作の『ターミネーター』、そして『ターミネーター2』をDVDで鑑賞してから映画館に足を運んだ。
あらためて『ターミネーター』と『ターミネーター2』を観て、この2作がターミネーターシリーズの中で傑作であることが良く分かった。ちなみにT3は評価が低いという話を聞くが、私はT3も好きだ。T3まではテレビやビデオなどで何度も見ている。その後のT4とT5は、私にとってはいまいちで、映画館では観たが何度も観る気にはならなかった。特にT5はパロディという感じがし、がっかり感の強い映画だった。
さて、T2は最高傑作と言われているが、確かに他の作品と比べて、ジョンのT-800に対する愛着、サラ・コナーの息子への愛情と人類の未来を掛けた責任感が良く描かれていて感動的だ。特にラストで、T-800が自ら溶鉱炉に入って自決しようとする時、ジョンが涙を流すのを見て、T-800が "I know now why you cry. But it's something I can never do."「なぜ泣くのか今は分かる。でもそれは私には決してできないことだ」と言って身を投じる場面。最期に自らの命を掛けて未来の人類の悲劇を防ごうとした行為は、まさに「良心」に従った行動だ。T-800に「良心」が芽生え、人の心をある程度理解できるようになったのだ。
この流れが『ターミネーター:ニュー・フェイト 』に引き継がれている。この作品がT2の正当な続編である所以がここにあると言えそうだ。
良心を育てたターミネーター
『ターミネーター:ニュー・フェイト 』で、サラはカールと名乗るT-800と出会う。このT-800(カール)は映画の冒頭でジョンを殺したターミネーターで、T2に登場したT-800とは別の存在だ。そしてサラはカールが幸せそうに妻と子供のような人と写っている写真を目にする。サラはカールに「いい家族ね。彼女もターミネーター? この坊やも?」と聞く。カールは、小さい子はマテオで彼女はそのお母さんアリシアだ、と答え、ジョンを殺した後目的を失ったが、子供が父親から虐待され苦しんでいた「この家族の面倒を見てあげることで(人生の)目的が与えられたんだ」という。さらにサラに向かって「マテオを育てる中で私はあなたから何を奪ったのか理解した」との思いを明らかにする。
その会話を聞いていた強化人間のグレースが "Wait, you grew a conscience?"「えっ、良心が育ったてことなの?」と驚きを見せ、 T-800は「そのようなものだ」と答える。ジョンを殺すロボットとしての使命を失ってから20年間、T-800はマテオやアリシアと暮らす中で「人間性を持つことを学習した」という。つまりロボットだが、人間と同じような良心が生じたというのだ。
前作の『ターミネーター2』には、T-800が人間性を持つようになる伏線が描かれていることから、続編はその流れをしっかりと引き継いでいる。
T2では、T-800と出会ったジョンが、無機質なT-800に対して「プログラムされてること以外のことも学習できるのかい? 例えば、もっと人間らしくなることとか」と聞く。それに対してT-800は「人間に多く接するれば接するほど人間性について学ぶことができる」という。
ジョンが泣いているのを初めてみた時のT-800は、ジョンがなぜ泣くかは分からなかった。しかし、ジョンが「人を殺しちゃいけない!」「笑ってみなよ」などと "教育" することでT-800は徐々に人間性を身に付け、最後に泣くことはできないものの「泣くことの意味を理解することができる」まで、人間性を成長させたのだ。
「良心をもつ者」対「良心をもたない者」
その正統な続編『ターミネーター:ニュー・フェイト 』のT-800(カール)は、T2のT-800とは別の存在ではあるが、20年かけて人間性を学び良心をもつようになったのである。
そして『ターミネーター:ニュー・フェイト 』を貫いているのが、「良心をもつものたち」の活躍を表現していることだ。大切な家族を失ったり、恐怖や死に直面したり、そんな不幸ともとらえられる場面がいくつか出てくるが、それに対して逃げるのではなく、立ち向かって行く姿が描かれ、それが観るものに感動を与える。
グレースが薬を盗んでも、歩くこともままならないグレースの様子を見て助けようとする薬局の店員。リスクを冒してまでサラたちが国境を越えることを助けるおじさん、兵器を横流ししてサラを応援する軍関係者。これらは困っている人を、そして愛する人を助けたいという「良心」による行動といえる。
一方、新型ターミネーターREV-9は、ただひたすら未来の指導者ダニーを抹殺することだけのために行動する。その存在は、目的の遂行だけのためにあり、「良心」は存在しない。他者を思いやったり、愛することはない。
ターミネーターはサイコパス
書籍『良心をもたない人たち』(草思社文庫)の著者によれば、
「良心」とは、「ほかの人たちへの感情的愛着に基づく義務感」である。 「人は良心がないとけっして本気で愛することはできない。そして義務という命令的感覚から愛を差し引くと、残るのは薄っぺらな第三のもの――愛とはまったく別の所有欲だ」という。
良心がない人、愛がない人、それが「サイコパス」だ。そんな視点から見ると新型ターミネーターは「サイコパス」と似た存在だ。
良心がなく、目的だけ遂行しようとする人にとって周囲は目的遂行のためのコマに過ぎない。目的遂行に利用価値があれば使うし、利用価値がなければ捨てるだけだ。
例えば5時に待ち合わせがあり、その行く途中で大怪我を負って倒れている人がいたとする。怪我人に気を掛ければ5時に間に合わない。しかし人通りのないその場をそのまま通り過ぎれば、大怪我を負っている人は命を失うかもしれない。そんな状況の時、良心のない人は躊躇なく怪我人を無視して、目的遂行、5時の待ち合わせ場所に向かう。良心がある人は、待ち合わせ時間のことよりも、119に電話をしたり、なんとか助けようとすることを優先する。これが良心のない「サイコパス」と良心のある人の違いを表す一つの分かりやすい例だ。
「ターミネーターREV-9」も「サイコパス」も目的を遂行するだけ。目的遂行に邪魔なものは相手にしないか破壊するか、というのが彼らの行動様式だ。そこでREV-9をやっつけるためにサラがとろうとした作戦が、ダニーを囮(おとり)にすることだった。REV-9はひたするダニーを抹殺することだけのために行動する。それを利用してREV-9を倒そうという訳だ。
良心は人を幸せにする
映画では、最期にグレースの体内にある電磁パルスを使ってREV-9を破壊する。そのためにグレースは自らの命を捧げ、カールも命を懸けてREV-9に電磁パルスを突き刺し相死にした。
これは、「良心をもたない」強力なロボットREV-9に対して、力ではREV-9に劣るカール、グレース、ダニー、そしてサラら「良心をもつものたち」が力を合わせて戦い、最後に良心をもつものたちが勝利するという物語と捉えることができる。
良心があるがゆえに悩んだり、葛藤したり、辛い思いを経験する。良心がないREV-9にはそのような悩みは一切ない。グレースやカールが命の危険を顧みず、また命を投げだすまでしたのは、グレースのダニー対する「愛」、カールのサラに対する「贖罪意識」、サラの人類の未来に対する「責任感」といった、いずれも人間ならではの良心があるが故の行動だ。
書籍『良心をもたない人たち』の著者は、
「支配することは一時的には快感でも、人をしあわせにはしない。だが愛は人をしあわせにする」
「良心をもっていると、・・・つらい目に遭うかもしれない。でも、良心の欠けたうつろな、危険好きの人たちとちがって、あなたの人生にはほかの人たちといることから生まれる温かさがある。そして迷いも、激しい怒りも、快さも、喜びも感じることができる。そして良心があれば、愛という最高のリスクを受け入れるチャンスもあたえられる」
という
サイコパスに関心をもって、この映画を観た今回、人を貶め平気でいる良心のないサイコパスより、悩むことがあっても良心のある普通の人であることの良さを感じることができた。
良心がない人間「サイコパス」は、目的のために何でもするために、一時的な出世や成功を見せることがある。しかし、彼らには人が当たり前に持つ温かみはない。そして人を幸せにすることもない。それは殺人ロボット、ターミネーターも同じだ。
しかし良心を育んだターミネーターがカールとなった時、ロボットは冷たい存在ではなく温かい存在となった。そして人を幸せにするようになった。人は人を幸せにできる。そして人は人を幸せにした時に自らも幸せを感じられる。今回はそんなことを深く感じた映画鑑賞だった。