読書感想文「忘れられない日本人」
忘れられない日本人 民話を語る人たち / 小野和子 ON READING Online Shop (ocnk.net)
忘れられない何かがあるとするならば、それは、その対象が今まさに忘れ去られようとする時に初めて、陽炎のように立ち上がってくるものなのかもしれない。と、思えてならないのである。
5年前、福島県浪江町の原発避難解除区域で見た光景がそれだった。もう長いこと人が住んでいない、壁がひび割れたアパートの、開きっぱなしの錆びた扉。中を覗く、1枚の絵葉書が目に入る。黴と土埃に塗れたそれには、幼子を抱きかかえた若夫婦が、海を背景にして、カメラに微笑んでいた。
状況こそ多少風変っているものの、なんてことのない、何処にでもあるような風景。だが、同じ光景は、二度と見ることはできない。数年前に、このアパートは区画整備の一環で解体されている。残されたのは、僅かな雑草が生え繁る空地のみ。それ故に、こう言うことも出来るだろう。この世界であの絵葉書のことを知るのは、私と、私と同じように通りかかった人と、あの絵葉書に映った若夫婦と、絵葉書を受け取った部屋の主、の四者だけで。ここから減ることはあっても、増えることはないのだと。
そして、このように、文章として残せるほどに語ることが出来るのは、きっと多分、私一人だろう、とも。
他にも、ある。山奥深くに眠る、屋根が崩落した神社と、苔生した二匹の狛犬。人が消えた街の一角に聳える、預金通帳が床に散乱した診療所。川沿いの集落の中、独りでに風に揺れる錆びたブランコ。人間が既に去り、廃墟と呼ばれる空間。かつて人が暮らし、そして、去り際に遺していった落とし物の数々を、忘れることが出来ずにいる。忘れられない光景として、憶え続けている。
人は殆どのことを忘れる。聲も、匂いも、光景も、一昨日食べた夕ご飯でさえも。即ち、忘れることが普通であり、忘れないことが以上であると、そう考えるのであれば。忘れ「られ」ない、ということは、一体どのような状態なのか。「日本人の源流として、かつてここに人が住んだことを忘れれるべきではない」「過去の日本人の慣習から学ぶべき」……等々。忘れない、即ちは記憶することによって、現代に生かせる何らかの教訓や知恵を獲得するため、だからか。
少し違う、ように思う。より、個人的な理由がある。たまたま同じ時代、同じ国に生まれた人々が、去り際にいくばくかの忘れ物を残していったこと。それを、同じようにしてたまたまその場所を訪れた者が、偶然にも見つけ、拾い上げたこと。幾重にも積み重なった偶然の果てに、見知らぬ人々、他者が残した生の証に巡り合えた、その一回性の奇跡への感謝と崇敬。
単に遺留物を発見しただけ、というだけの話に、何を大げさな、と思うかもしれない。それは、きっと正しい。だから、これは私だけの理由である。あるいは、より個人的な表現となるが、もしかするとこう言い換えることが出来るかもしれない。その時、その瞬間に、私は死者たちの声を聴くことが出来たのだと。
……『忘れられない日本人』。在野の民話採訪者である著者が、東北地方の農村を巡った50年余りの旅路の果てに、最も思い出に残る語り部8人を素描した文芸書である。戸数十四戸の山奥の村に生きた人。定職につくことなく雑貨屋・行商人として生きた人。友が売られた村に残り生き続けた人。それらの人々を描いた記述と、語った民話は、深く、厚く、そして重い。『我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。』というのだと。
同時に、いくばくかの悲しみに襲われる。本著にて語り、そして語られた人々の大半は、既に鬼籍に入っている。その人々が見聞きした世界は、その人々の死によって、永遠に失われたことが。ただ、このような文字媒体の記録で、そのわずかな断片にしか触れられないことが。一抹の寂しさを、覚えずにはいられないのである。
……人は、いずれ死ぬ。「忘れられた日本人」として、その先人がそうであったように、無名の人として墓標に名を連ねることとなる。その時に、死者は生者のために声を残すことが出来るだろうか。その時に、生者は、死者の声を聞き届けることが出来るだろうか。