御岩神社の起源
御岩神社(茨城県日立市入四間)の起源についての一考察
Yi Yin
茨城県日立市にあります通称「御岩さん」で親しまれています「御岩神社」は最近パワースポットとしてにわかに観光地として脚光を浴びています。
茨城県ではよく「日立」と「常陸」の区別や発祥の起源について取り沙汰しておりますが、私見では、『常陸風土記』に記されてある「直道(ひたみち)」の由来説明より、「日立」の銘名はずっと古代においては、「日の立つ処」という意味で、後に「常陸」という漢語を無理矢理に造語したのではないかと勘繰っております。
もう少し付け加えれば、九州の「日向」を意識していたのかもしれません。
別名「賀毘礼」の高峰(カビレ)と言います。この由来は、「神が天降る」で「かむふる」、あるいは落雷を意味するという説もあります。その付近では、石鏃・石斧や土器が出土し、甕型土器が数個一直線に並べられて発見され、古代からの祭祀の古さを残してきております。
さて、この御岩さんは、山の上ということで、参拝しにくく、麓の常陸太田市の星野宮に移転して、其れが「薩都神社」と呼ばれております。
「薩都神社」という響きから、日本列島の他の神社との関連を考察してみますと、日本海側の「佐太神社」が挙げられます。島根県松江市鹿島町佐陀宮です。出雲の二ノ宮としても知られ、伝承では「カンナビ山の麓に座す」と言われ、その山は「比波山」を言ったものでしょう。
今度は、そこに奉られております神さまについてですが、これは「常陸風土記」にしか記述されていない神であります。記紀には出てきません。
しかし、それでももう少し探りを入れてみますと、「火の神・軻遇突智(カグツチ)から生まれたとされる甕速日神(ミカハヤヒ)・樋速日神(ヒハヤヒ)・健甕槌神に関連があるとみて間違いないでしょう。
この「立速日男の命」は、同様に火の神、あるいは稲妻の神と推定できます。
祭神は立速日男(たちはやひ)です。なぜか、別名は速経和気命(はやふわけ)です。この速経和気は社伝の『佐都大明神成実因縁記』によると、太政大臣・藤原義嗣のことです。それが死後の天長8年(831年)に従五位下の官位を授かってから立速日男命と呼ばれるようになったと言われております。どういう経緯なのかは想像するしかありませんね。
さて、察するに、ずっと後、この御岩さんの神さまの名前の由来から、「立速日」という名前からヒントを得て、「日立」という名前が付けられたかどうかも想像の域を出ませんが。
もう一つの注目すべき事柄は、ここの近くの「大甕」の「甕」という言葉の関連です。
甕速日神とは、日本神話の神産みにおいてイザナギがカグツチの首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱です。
ここから浮かび上がって来ます想定は、古来、「因幡の白兎」伝承に関連するものです。
ご存知のように、鰐とウサギの話です。そこで、大国主の命は白兎の傷をいやしたことになっております。
この鰐については、概ね「鮫」と同義で言われておりますが、私見では、「和邇氏」と新羅からの流民となんらかの確執の事件のあらわれではないかと思われます。
「和邇族」とは、大和国添上郡和邇や滋賀県大津市にも残っている地名とも関係しておりますが、もともとは、もっと以前から「綿津見」一族と並び称される「和邇氏」のことで、海上を生業(なりわい)とした一連の海洋民族ではないかと思われます。
茨城県の鹿嶋にも「鰐川」や福島県南部にも「鮫川」があり、なんらか繋がりを感じざるを得ません。
この「まつろわぬ」香香背男は、日立の伝承では、「甲羅鮫」と呼ばれていたらしいのです。これが、「鰐」と「鮫」との関連、及びそれが「香香背男 カガセオ」となった経緯の理由でありましょう。
この「和邇氏」とは、大和の土地に、朝廷にかしずく以前は、この「カグツチ」伝承から推測するに、「列島各地で暗躍した鉄生産活動あるいは鉱山発掘業の担い手」と考えられます。
そして極めつけは、長崎県壱岐島の佐肆布都神社です。この神社御祭神には、武甕槌命を筆頭に高貴神、 天照大神、猿田彦命 、天鈿女命、
甕速日命 、樋速日命 、経津主命、稜威雄走神 、天児屋根命、大己貴神 、事代主命が奉られていて、中臣、藤原氏との深い連携が忍ばれます。
ここにおいて、韓半島との繋がりも見過ごしにはできないでしょう。
要するに、御岩さんと、南方向にずっと下って行った「鹿島神宮」との関係は、「甕(みか)」繋がりであるこの重要性は否定できないのではないかというのが私の考えです。
鹿島神宮の近くに「東西社」というところがありまして、古来、「甕」が沈んでいたと言います。
さらに付随して二三のことを言わざるを得ません。
一つは「御岩さん」の北側の峰です。ここには、「星の宮神社」が座していますが、言い伝えではご神体は、「雲母」だとされております。
ここは現在日立市管理のレジャーランドの「キララの里」があります。
この施設を命名した方の明察には驚かされます。
そして大甕から南に向かいますと、久慈川が流れておりますが、そこを挟んで南側に海岸に沿って東海原子力発電所があります。そのまた南側に有名な、虚空蔵山があります。正式な名称は、「村松山虚空蔵堂日高寺」と申します。
私どもも子供の頃、十三参りと申しまして、いわゆる元服のようなしきたりで遠くから汽車を乗り継いで参拝しました。いわゆる「知恵の宝珠を頂く」という意味です。
この「虚空蔵山」はもともとは「妙見菩薩」から移行したと言われております。この「妙見信仰」の宝珠が「雲母」なのです。
古来中国では、長生の薬として重宝されていたという記録もあります。
高鈴山の名前のように、高鈴山系は鉱物資源が豊富です。因みに、日立製作所の起こりは、「日立銅山」ですが、逸話に「銅山の煙突の内側を清掃するのにそこを梳ると大量の金が出て、それを社員にボーナスとして下賜した」そうです。
『常陸風土記』には、常陸国の成り立ちについて、「建借間命」の活躍がおおらかに陳述されております。
これも私見ですが、『日本書紀』の歴史起源に纏わる事件としてカガセオ退治に失敗した関東の二大神とそれとの対比で征伐を成功させた健葉槌神の物語が出てまいりますが、おそらく、この物語は、ある史実の裏付けがあったのであり、その史実といえば、この建借間命の活躍なのではないかと考えております。
最後に、これはあくまでも推測の域を越えない邪測とも言えることですが、不思議に今述べました「妙見信仰」の宝珠「雲母」と「健甕槌神」の聖名の「甕」との関連ですが、キリスト教やユダヤ教に出てくる、「天使ミカエル」の語源が、「mika」が、英語の「mica」が、はからずも「雲母」なのです。
まとめ
古来の氏族「ワニ」は、海洋民であり、鉱物資源発掘にも才があり、日本列島各地の鉱山を採掘していました。後に稲作が全土に普及するにつれて、他の氏族(オオ氏など)も鉄生産をするようになり、和邇族はその競争から姿を消していきました。
それまで日立地方に集中していた繁栄は、朝廷の蝦夷征伐の時期に呼応して南の地区の鹿嶋に移っていきました。