41年間、毎週1回1度も休むことなく発行。 伝説の新聞『バンクーバー新報』を立ち上げた ひとりの日本人女性のストーリー【番外編②】
1978年12月。バンクーバーの旧日本人街で、ひとりの日本人女性が新聞社を立ち上げた。新聞の名前は『バンクーバー新報』。
それから41年間、毎週1回のペースで1度も休むことなく発行され、多くの地元の人々に愛された。惜しまれながら2020年4月をもって廃刊となるも、2021年、その偉業に日本からも旭日小綬章が送られる。
その新聞社を立ち上げた女性の名前は、津田佐江子さん。
自分がこの新聞を知ったのは、廃刊後も継続するバンクーバー新報のwebメディアがきっかけだった。津田さんが旭日小綬章を受賞されたインタビュー記事をたまたま目にして、衝撃を受けた。
「41年間、毎週1回1度も休むことなく発行」
そんな偉業を成し遂げた日本人女性がバンクーバーにいたなんて!
そもそもなぜ新聞を? どうしてバンクーバーで? 疑問は深まるばかり。
「難しいことは聞かないでね」
取材内容について連絡した電話の向こうで、バンクーバーのレジェンドは笑いながらそう言った。
”I can’t speak English”と書いたカードを
胸にぶら下げて、船でバンクーバーへ
コロナの規制も徐々に緩まり始めた6月初旬、津田さんが毎朝散歩で訪れるという近所の公園で待ち合わせた。青空の下ベンチ取材。夏目前のバンクーバーの午前中は、長袖でもまだ少し肌寒い。まずは単刀直入に聞いてみた。津田さん、なぜバンクーバーで新聞社を始めたんですか?
「何か特別な志があった訳では無いんですよ。そもそも新聞を作った経験も無かったし。バンクーバーに来た理由は、その前にオーストラリアのシドニーに1年間、友達とふたりで滞在して、嫌いじゃなかったんですね。で、現地の友人に、『バンクーバーはシドニーと似ているよ』と言われて、行ってみたいなあと思って。だからこれといった目的も無くまずバンクーバーに行って、それからアメリカに渡って、また日本に帰る予定でした」
「とにかく好奇心に満ち溢れていた」と、津田さんは当時を振り返る。海外旅行に行く人はまだあまりいなかったけれど、小田実さんの『なんでも見てやろう』という本がベストセラーになり、「血の気の多い人が多かった」そう。
「バンクーバーには、10日くらいかけて横浜発のノルウェーの荷物船でやってきました。オーストラリアの時もそうだったけど、私は臆病だから、一足飛びに飛行機で外国に行くというのは考えられないんですね。だから、じわじわと船で(笑)」
先日日本に一時帰国した際、当時横浜に見送りに来てくれた友達に会ったそう。
「居酒屋で飲みながら、その友達に『ねえ、横浜で私が何してあげたか覚えてる? あなたが船に乗るとき、カードに”I can’t speak English”って書いてカタカナでふりがなを降って、それを胸にぶら下げてあげたのよ』と言われて。英語もできないのによく行ったもんだなあと」
でも、「旅がお好きだったんですね?」と尋ねると、「好きじゃないです」と即答された。
「私、日本が大好きなんですね。今までも海外日系新聞放送協会の関係で年に1度は帰っていたし。でも、日本にい続けるということは考えられなかった。日本で就職して働いたこともありますけど、もちろんこれは人それぞれですけどね、私には組織の中で生きていくことは合わなかったんです」
津田さんは人生の早い段階で、直感的に海外に何か人生のヒントがあると確信していた。
『新聞が届かない』って苦情がくると、自分で配達したりしてね
基本は慎重、ゆっくり、じわじわと。でも、好奇心は一際旺盛。
ベンチで話を聞きながら、津田さんのキャラクターと41年間の偉業がだんだんとつながってくる。
では、なぜ経験も無いままに新聞社を始めることになったんですか?
「当時、バンクーバーにいる日本人たちは、みんな日本のことを知りたがっていました。でも、その情報がなかなか手に入らない。日本の貨物船が月1回くらいやってきて、船員たちが読んでいた、日本のことが紙に印字された通信があってね。読んだら捨てられていたんです。
じゃあそれをもらってきて、その中からみんなが興味のありそうな情報を選んで載せてみようか、と、手書きでまとめたのが『バンクーバー新報』の始まりです」
41年分の新聞、資料、その他備品等は、すべて博物館に寄付されていた。1号目&2号目の直筆の原稿からは、当時の津田さんの凄まじい熱量が伝わってくる。
「いざ500部作って、あるお店に置かせてもらったらあっという間に無くなって。『次はまだなの?』『待ってるから』と、みんながどんどん楽しみにしてくれるようになって。1年くらいは手書きでやっていたかな」
当初は、地元の人々が「なにかやろうか」と、ボランティアで入れ替わり立ち替わりで手伝ってくれた。
「もちろん営業なんかいない。新聞は無料だからお金になりそうもない。だから、広告を出してくださる方たちがいました、私を見るに見かねて(笑)」
以降「次何やる?」「次どうする?」と、目の前のことに必死な毎日。あっという間に月日は流れていった。日本ではアメリカのビザも取得してきていたけれど、気づけばバンクーバーに居を構え、結局アメリカには行かずに今に至る。
「たまに『休みたいなあ』と思うこともあったけど、辞めて日本に帰りたいとかは一度も無かったです。みんなの『来週また待ってるよ』『頑張って』が本当に励みになりました。
多いときで、会社には20人くらいいたかな。1986年にワーホリ制度が始まったときなんて、会社に行くと若い人たちがいっぱいいて『記者をやらせてください!』って。
社訓なんてありませんよ、みんなでおはよーって言って、ワイワイやって、それが良かったんですよ。あの当時はイキイキして、楽しかったですねえ本当に」
新聞は、だいたい月・火・水曜日の3日間で作業をした。手書きの時代には残業や徹夜も当たり前、地元の人がおまんじゅうを差し入れてくれた思い出もあるそう。読者の人たちとも、数え切れないほどいろいろな交流があったに違いない。
「『新聞が届かない』って苦情がくると、自分で配達したりしてね。あとはレストランの人から、『住み込みの従業員が部屋から出てこなくなった、大丈夫だろうか?』と相談されたり(笑)。なんでもやりましたよ」
そんな相談が来るのは、コミュニティとの強い絆がある証。「新報を見れば、どこで何がやっているかわかる」「新報に載っていなければ、その情報は怪しい」そんな声も聞こえてきた。信頼されていた。
とはいえ、記事作りに関しては、「自分たちの正義で何かをやらない」を徹底した。つまり、「起きていることをそのまま伝える、判断は読者に委ねます」。
バンクーバー新報の社長だけでなく、実は商工会や女性の起業家協会の会長という肩書きも持ち合わせていた津田さん。「日系の人々の横のつながりを作りたいと思ったんです」。喜んで身のまわりの誰かに尽くし、想いに応えようと奔走する津田さんの姿が目に浮かんだ。しかし、やることが幅広い。
「好奇心旺盛なのは基本的には今も同じです。いろいろなことに興味がある。もうおばあだけどね(笑)、なんかやりたいのね。次はね、ほんとに、ほんっとに自分のことをやりたい」
日本から来たその手紙を見て、私ももう泣きましたよ
「たぶんこれからも、”創る”って私の本質だと思う。見る、考える、動き続ける。そうして自分の深いところに迫りたいと思っています」
取材も終わりに近づいた頃、ふと聞いてみた。
仕事と関係なく、津田さんがひとりの人間として大事にしていることってなんですか?
「人が好きなんですね。それは私の生い立ちも関係しているかもしれません」
津田さんは、高知県の田舎で育った。その村は当時11軒しかなく、今は廃村となっているそう。
「先日、日本政府から旭日小綬章をいただき、高知新聞からインタビューを受けたんです。故郷の高知は、私の人生の大事な核になっています。まだ子どもの頃、病気で私が寝ていたとき、その村の近所のおばさんが『早く元気になりな』と卵を3つ持ってきてくれたことがあって。そのおばさんのことはいつも想っていた、そんな話をしました。
それからしばらくして昨日、日本から手紙が来たんですよ。
『高知新聞のインタビューを見て私はもう胸が詰まって、その新聞を何時間も抱きしめて泣きました。私はすーちゃんと呼ばれていました。昔その村に住んでいて、今81歳になりました。村には坂道がけっこうあったので、小学校の時に私はあなたをよくおぶって帰りました。背中で感じていたあなたの温もりを、今もはっきり覚えています』
”すーちゃん”はどうやって海外に手紙を書いたらいいかわからなくて、郵便局の人が全部調べて書いてくれたそうなんです。その手紙を見て、私ももう泣きましたよ。
そして、必ずコロナが終わったら日本にあなたを訪ねるので、元気でいてくださいとお返事を書きました」
新聞の力が呼んだ奇跡。そして、日系のコミュニティと深い信頼関係を築き続けたバンクーバー新報の原点は、振り返れば津田さんを育んだこの小さな村での体験の延長線上にあった。なんと一貫した人生だろう。
「こういう感動が大好きなんですよ! バンクーバー新報の41年間にも、何度かあったんですね、こういう感動が。そりゃ苦労も忘れます。
お手紙をもらったり、日系のコミュニティの人たちに「頑張ってね、楽しみにしてるよ」と言われるともうエネルギー出ちゃう!
私はそういう体質です。友達には浪花節とからかわれますけどね(笑)。この新聞を作ることで、私自身が育ててもらいました。本当に」
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