コミュニケーションの交差点。
スマホを得た現代人が変わってきたこと。
それは撮影や閲覧が自分主体、主導であり
あらゆる判断の主役に自分を位置付けてる。
という推測のもとで考えてみた。
撮影する決断、編集する決断、
アップする決断。閲覧する決断。
すべて自分で決める主役になる。
この主役として振る舞う心理は
意外と考え方の大きな要素になっている。
自分中心の考え方への原因かもしれない。
自分が中心にない話題や事柄に対して
なんかおもしろくないって感情があり、
うまく対処できていない人が
多くなってきているのではないか。
自分たちがわからない事柄に対して、
つまらないと見向きもしなくなる傾向に
なってあらわれてきている気がする。
例えば、若手のお笑い芸人が言った、
中堅芸人がプロレスや古いアニメのネタで
笑いをとるけど全然笑えない、
みたいなこともそう。
自分たちがわからないから、
興味が持てない。
うまく興味を持ったとしても
自分発じゃないから
あまりおもしろくないと
感じてしまう心理がないか?
いわゆる内輪ネタで盛り上げる
バラエティ番組もそう批判がされる。
これにも似たような心理があるのでは?
自分が興味ないことで
周囲が盛り上がると冷める感じは
わからないでもない。
でもそれってどの世代も
これまで経験してきているし、
逃れられないこと。
逃れてはいけないことだと思うんです。
たぶん若い人も自分たちがわかる
共通理解のもとで考えたり、
言葉で例えたりしているだろうから。
このままだといずれ同じ目にあうだろう(笑)
自分たちの知らない話題で
盛り上がったり共通理解を得たりするのは
どの世代にも共通する当たり前のこと。
それが笑えなくても仕方ないんですよね。
若者時分は、私たち中年世代だって
わからないネタだらけだったが、
当時の時代背景に自分を寄せれば
理解できないわけでもない。
すぐにわからないからと拒否するのは
ちょっと早急すぎないかと。
これはたぶん、避けて通れない道で、
みんながたどる道なんですよね。
そして世代が違えばわからないたとえも、
受け止めたり、流したりするより
方法はないのではないかと。
時代背景含めて理解できれば
面白くないこともない。
そういうアプローチを毛嫌いしてるだけ。
のような気がするんですよ。
ちょっとガマンする、ちょっと聞く。
この行動をしなくてよい生活があるから。
若者たちが自分でわからない話を
積極的でなくても、聞こうとしないのも
いわゆる、飲みニケーションが無くなった
大きな要因ではないだろうか。
そして自分の興味のあることにだけ、
自分がわかることにだけ熱意を示す。
むかしの若者も同じ気持ちを抱えていた。
しかしスマホやゲーム、音楽など
「手軽な逃げ」への通信手段がないから
逃げられなかったんですよね。
だからガマンして逃げずにいたことで
徐々にわかるようになってきたり、
相手も話を聞いてくれたことで
納得感が芽生えたりして、目に見えない
信頼感を互いに得られたんだと思うんです。
いまは互いが逃げる手段が手元にあり、
いつでも、すぐに逃げてしまえる。
だから聞く耳を持っていなくても、
ガマンの先にある「信頼関係の構築」に
たどり着くことができないんです。
相手の主張を吸水性ゼロのように
弾いてしまって寄せ付けないようになる。
結果として、互いに理解が進まないまま、
互いの主張が、ぶつかり合う。
コレじゃないですか?たぶん。
それによって両者が救われることは
ほぼ、ないといっていいかもしれない。
そして、終着点はわかりあえない人。
行き止まり、立ちすくむ。関わりを断つ。
目に見えないところで
こういう人がたくさん生まれている。
増え続けているんだと思うんです。
現代のテクノロジーは
したくてもできなかったことを
できるようにしてくれた。
しかし、できるようになったことで
「できなくしてしまった」部分があるのだ。
あえて便利なツールを捨てなければ、
私たちはますます、わかりあえなくなり
意思のかみ合わない空間を
歩まなければならなくなる。
少々、ダウングレードさせて
少々、ガマンしあう重要性に
私たちはもう一度、気づくべきでは?
人が関わりあう本当のゆたかさを
取り戻すために。
すごく大事な視点だと思うんですけどね(笑)
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