見出し画像

椅子と地ベタのあいだに。


素直な気持ちで正直に思うんですけどね、

僕らがnoteで書いてる内容はもちろん、

正論であり、やったほうがいいことばかり

って思うんですけど・・・


ただ、このようなところで

書く人たち、書ける人たちは、

まだまだ、恵まれている人たちばかり

なんですよ、きっと。

あなたもワタクシも、まだ恵まれている。


ホントに恵まれない人や困窮している人は

予想以上に自分の目線の「下にいる」

ということです。

偏見でもなんでもなく、下にいてしまう。

言葉は届いたとしても、心に響かない。


もっと自分発で始まる目線を

変えないといけないんだろうけど

難しいもんですよね。

得意げな用語やカタカナを振りかざしても

満足するのは横文字連発する本人だけで、

下にいる人らは、興味すら持ってくれない。


日本語でやれ。わかりやすい言葉でやれ。

さんざん言われていても降りてこない。

高いところ、上がってこれないところに

椅子を丁寧にならべている。


やるならここまで、このレベルまで

来れるなら上がってこいよと。

無意識に高いところへ登ることを要求する。


平成生き残り合戦に巻き込まれ、

市中に溢れかえる敗者をよそに、

勝者は自己の立場を盤石にし、

全体をかえりみることはない。


僕ら書き手の側がいる土台すら、

すでに高いところになってしまう。

少しの恍惚と、自分の論理やスキルに

酔いがちになってるとしか、

外野は感じとれないのだから。


椅子に座った目線、地ベタに座った目線。

椅子からは見降ろしていないとしても。

椅子からは目線が、

上の位置から下の位置へ。

地ベタからは目線が、

いつも自分から上の位置へ。


どんどん離れてゆく。

「いく」より「ゆく」が合う。


いわゆる成功者、成功した人たちは

どんな条件であっても

がんばれば、地位や身分は関係ない。

やればできるんだから、がんばれ!!

というものの、みんながみんな

いまのシステムでは成功できないのが現実。


無意識に昭和のシステムの上にいる勝者。

新しい試みすらも昭和のシステムで淘汰。

自身の逃げ切りばかりに腐心して、

この根本的な問題には手をつけようとしない。


そう、実は変えようとしているけれど

同じシステムの上につくるために、

結果的に吸収されて同じにしかならない。


その椅子に座れないような予備軍は、

椅子が空くのを懇願しながら待っている。

たぶん、ごまんといるロスジェネたち。

ワタクシもそのような氷河期世代の一人。

いまに見ていろ!と士気を高めるも、

ままならない現実に既に心折れた者も多い。


そのキラキラしたようにみえる椅子は

専用の「用意されてる椅子」なんですよ。

定型化されたルートをたどり、選ばれ

エリート然とした経歴をひっさげて、

ようやく約束を取りつけて座れる。


公務員の氷河期世代の正規での採用も

みんな同じ椅子求めて、同じ構図にすがり

数十年周回遅れであっても座りたい強い意志。

哀しいかな、同じライフプランはたどれないのに。


国も同じ椅子に座らせてあげますよ、と差し伸べる。

でも同じ椅子に座れたことが、その安心こそが

彼らが数十年思い描き、求めていた椅子なんだろう。

あのニュースをみて、国も同じ昭和の構図を

捨てきれていないんだなと感じた。


実証された過去の成功事例でしか、動けない。

表向き新しくても、根っこは昭和のシステム。

法律待ちで対処がダイヤルアップ接続の日本。

新型コロナでももれなく、世界中に露呈させた。


どんなに遅いと叱責されようが、

スピード感が命と言われようが、

法律に落とし込み、落ち度がないと確認しないと

腰を上げてみせないのがわが国、日本の現実。


彼らに新しい大胆さは期待できやしない。

新しい形をつくる動きを民間レベルで動かし

意図的に逆の方法をとらないとダメだ。


もし自分が風穴を開けることができるとしたら、

このエリート構図と別のルートで椅子をつくること、

なんだろうと思うんです。あらゆる場所で。

自分たちで、自分たちのための椅子を。


みんな、椅子は数が限られていると思っているんだけど、

椅子は自分たちでつくって並べて座ることもできる。

それができたら苦労しないよっていうでしょうけど。

昭和のシステムにみえない依存があるから気づかないだけ。


実際、自分たちで椅子をつくって展開する構図が、

ある意味でYouTubeでしょ?

そして私たちがワクワクしながら答えを探した

ドラマ「あなたの番です」もそう。


私たちは答えがわからないけど、

ワクワクしながら答えを探す魅力が

人を巻き込み流れをつくると知った。


やってこなかったことを、解決方法をみんなで探り、

考察して知識にとらわれない新しい視点を得ていく。

そうすれば、私たちの社会がこれまで

選択してこなかったアイデアの欠片をかけ合わせ、

自主的に参加するという一番足りないピースを

埋めることができるはずである。


どの世界、どの業種、どの環境であっても

椅子が残っていなくて、用意もできなくて

先に座っている人間たちだって、なかなか

どいてくれないしくみになってしまっている。


じゃあ、つくってしまえ。

だから、つくってしまえ。


ホントは自分で可能性を広げたくても

広げられない、ままならないままの人たち。

自主的に考え、新しさを生み出し

ワクワクしながら試行錯誤する、

「思考作後」に訪れる世界の楽しさを。

描いてみたくはないだろうか。


まず考える場を、参加する場をつくる。

知識の上に人をつくってきた社会と

同じことしてもダメなんです。

この難局は打開できない。


椅子をつくる場、なんですよ。

切磋琢磨する環境を自ら主体的に参加して

答えを探す手応えを感じながら作り上げていく。

手順をなぞるのとは、ワクワク感が雲泥の差。


この場づくりは、各都道府県、各市町村単位でできる。

ただ大事なのは行政をあまり絡ませないことです。

こういう場づくりは誰かが導いて、みたいな

ある程度の決まった手順やスキルを踏襲しがちなんですけど

あえてそこは避けていかないと、違いが出てこない。


この狙いの意味がわかるのは、場づくりが成功したとき。

横文字まみれのビジネス用語連発のスキルや知識のような

成功スタイルを踏襲したくなるんでしょうけど、

おそらくそれでは失敗するでしょう、間違いなく。


横文字連発の取り組みをカッポカッポしながら

闊歩する最新のトレンドを追いかけても、

決して大きな効果が出ていないことが何よりの証左。


次の世代のためにも新しい試みは必要だ。

たとえ失敗してもその教訓が活かせればいい。

椅子と地ベタのあいだでもがき苦しむ世代が、

何もせず、何もできず社会のお荷物になるより

よっぽど未来のためになりうるのではないか。












いいなと思ったら応援しよう!