のびしろしかない。
最近よく耳にする曲のフレーズ。
私たちの、のびしろってなんJARO?
あでも、ジャロはキライ(笑)
この前の記事、リサイクルの件で
いろいろと気づいたことを書いた。
その続きというか、派生していった
イメージでSDGs(エスディージーズ)
まで飛躍してみようかと思って。
SDGsとは言わずモナカですが(ウソ)
サステナブル デベロップメント ゴールズ
ええ。らしいですよ。持続可能な開発目標。
前回書いたのは
「日本はリサイクル先進国ですか?」
と街頭インタビューで聞かれたとき。
日本人と外国人の回答が
面白いほど視点がズレていて
ハッとさせられたという話。
日本はリサイクルというと
「ゴミの分別やっています」
というエンドユーザー意識。
外国人はというと
日本は全然できてない!
そう呆れられてしまった。
外国はリサイクルというと
循環そのものサイクル全体を
最初から視野に入れている。
「まずはゴミそのものを出さない」
全体のムダの量を削減する意識。
過剰包装、レジ袋あたりのね。
利便性や安全性と、天秤にかけすぎ。
じゃなくて。無くてもいいものを
まずは無くすんだよと。
ゴミの量を減らさずに
ゴミを分別することに
使命感を持つような意識。
違うでしょ?と。
サイクル全体に主体的に関わりながら
循環すべてを視野に入れているから
そう思うんです。
実はそれが当たり前の感覚。
日本人は、答えた一般市民だけでなく
ほとんどの人がそうかもしれない。
最後の一部だけで関わり
参加して役割を全う
した気になってる。
やった気になってる。
マラソンの折り返し地点。
ペットボトル、フタを取ってラベル外し
洗ってつぶして、ランナーに対して
「ほら、やってるよ。みてみて。」
うっさい、あっちいっとけ!でしょ?
こんなことされても困るでしょ?(笑)
まぁ極端すぎる、たとえですけどね。
地球の安全より人間の過剰な安全を
優先している結果ですよ、という。
この意識の違いというか
関わり方の立ち位置が違いすぎる。
たぶん、SDGsについても
日本人全体に同じスタンスで
アプローチしよう、させようと
してるんじゃないかなと。
私たち日本人はね
役割分担の意識が強くて。
自分の工程以外には関わらない
みたいなスタンスをとる。
主体性とも大きく関係している。
元はといえば、主体性欠如が根っこ。
エンドユーザーとしての
折り返し地点で再生できるように
物を渡すことだけを役割として見る。
だから折り返し地点までの工程で
なんかおかしなーい?なことが
あっても言わない。
言えない、だな。
直せというとなんだか
他人の仕事に口出しするようで
余計な迷惑がかかるから
やっぱ、遠慮しとこう。
なんとなくわかるでしょ?
その「遠慮しとこう」の延長上。
私たちは問題アリだよな~と
思いながらも便利だし清潔だし
安全だし仕方ないよねと言い
見ないふりして生きている。
いやいや、他人に迷惑というか
そもそも地球に迷惑な人間そのもの
生きててすいません、なんですから(笑)
地球師匠の負担を極力
軽くしてあげないとさ。
このごもっともな意見に
正面から謝ろうとしない。
そういう習性ができてる感じ。
いや、便利なほういっちゃうよな。
使っちゃうよなあってこと。
その意識を改めることがスタート。
サイクル全体を見て、全体に関わる。
それが、人間のすべき
日本人もすべき、第一歩でしょ?
経済や利便性を重視すればラクなほう
速いほう、便利なほうなど既存の延長で
享楽的に生きていけますよ、そりゃ。
でもそれだと地球が壊れてしまう。
人間が住めなくなり、飢餓や災害で
争い、奪い合いや殺し合いをした挙句
絶滅してしまうよということですから。
自分たちがやれることから。
そういうアプローチじゃダメでしょ?
全部を見せろ、全部を担がせろ。
普段の生活に支障ない程度で?
違う違う、そうじゃ、そうじゃな~い。
地球師匠いますよ、師匠みてますよ。
師匠は背中で教えているんですよ。
まだ、人間はのびしろがあると。
人類が長い距離を走るために
自然と地球を存続させるために
私たちの意識を変えてできること。
想像できることとか
ダメなこととか
変えられることとか
無くてもいいこととかね。
ほら、もう
のびしろしかないわ。
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