イジメ足りないとは?
どんどん世の中、面白さの質が
変わってきていますね。
面白いとはいえないレベルまで
なんだか質を下げる制限が増えていく。
たぶん、面白いことに対する
経験の質が異なる場合、
世代や環境の違い、人生経験などによって
笑う、面白い、楽しいの共有が
難しいんだろう。
年々、その難しさを感じる。
イジメを助長するものに抗議をして、
おもしろくない世の中の流れにした。
しかし、イジメそのものと変わらぬ行為で
自身がふるまい、ネットで誹謗中傷する。
心底、イジメたいんだと思う。
おそらく、イジメ足りていないんだと思う。
イジメ足りていない、とは何か?
今回はこれに注目して考えてみた。
このイジメ足りないことが、
笑いの制限にも関係しているのでは?
と考えているんですよ。
ワタクシはイジメとは
人間誰しも持つ感情で、
ある程度のイジメ量を満たさないと、
満足感が得られないのではないかと
考えているんです。
それまでの人生でその満足感が
足りない人が大人になってからも
イジメてしまうのだと考えている。
一定量のイジメを満たした
大人になる前に消化したイジメっ子。
イジメられっ子は大人になる前に
満たされていないから、
イジメの量、満足量に空きがあって
大人になっても満たされていない。
イジメる衝動をあまり発露できなかった
反動のようなものも潜在的にあるのだろう。
だからイジメてしまう。
若い頃に散々ハメを外した人たちは
意外と大人になったらやらないもの。
ヤンチャした、遊んだという満足感も
これと同じ構図ではないか。
大人になってハメを外してしまうのは、
逆に若い頃にマジメに勉強してたりで
幼い頃買えなかったオモチャを
大人買いしてしまうような埋め方で
ハメを外してしまうのだろう。
遅い青春を取り戻す感覚で。
イジメられていた人は
イジメ量が足りなかったであろうし、
イジメられた記憶がいつまでも残る。
ワタクシはイジメられた記憶はない。
ありがたいことに。
だからイジメられていた側の心理は
正直わからないところもある。
でもケンカして負けて泣いた記憶は
消えていない。
すごく鮮やかで何度も負けたことを
心の中で何度も繰り返して
色濃くしてきたように
覚えてしまっているから。
負けたことが悔しいのではない。
悔しいからおぼえているのではなくて、
印象的にして、覚えているという感覚。
それと同じでイジメられた記憶も
やっぱり何度も頭の中で繰り返す。
だから増幅させていってしまう。
悔しさもあるし、自分への情けなさ、
他人への怒りなども混じりあって
より複雑な感情になってしまったのか。
個人的な話をすれば、
ワタクシは右耳が奇形の
小耳症として産まれてきた。
先天性のもので、他人と違うぶん、
イジメられる要素はじゅうぶんにあった。
わかる人にはわかるが、タコ八郎の耳。
小学生の頃に形成外科で
手術を3度、開いて軟骨入れて
成形したんですけどね。
パンの耳みたいに言うとりますけども(笑)
いまコロナの最前線で闘う、
聖マリアンナ医科大学で。
当時は日本で唯一そこだけだったから。
でも、イジメられることはなかった。
おそらく周囲の人たちの
人間的な豊かさに支えられ、
恵まれていたことが大きいのだと思う。
自分の意思だけ強くても、
どうにもならないこともあるから。
ワタクシは恵まれていたんだと思う。
世の中、イジメを無くそうとする。
確かにそうだ、無いほうがいい。
しかし、イジメの満足感の絶対量が
私たちの心のどこかにある限り、
どこかで満足感を得る機会が必要に
なるのでないか。
大人になるまで封じ込めて、
より多くの複雑なイジメ感情が
逆に爆発するのではないかとも
危惧している。
これからの時代、そういう首尾良く育った
「子どもらしくない子ども」が
大人になっていくと
もっと陰湿なイジメになるのかも?
なんて、思ったりするんですよね。
考えすぎかもしれないが(笑)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?