親と老いの砂時計。
年老いていく人間というのは、
やはり不安が大きいのと同時に
できたことが、できなくなっていく。
この自分を受け入れる瞬間に向けて、
自分なりの覚悟をつくるのだろうか。
勇気があるとはなんだろうか。
怖がらないことだろうか、それとも
怖いけれども前に進むことだろうか。
年をとるとやはり変化が乏しくなっていく分、
自分の変化を受け入れにくくもなるのだろう。
若い頃は毎日が変化に対応して、日々変わり続ける。
自分が動いているぶん、周りの動きにも違和感を感じない。
しかし、年老いていき、自分が動かなくなると
そのぶん、周りの動きがより速く、より鮮明に
違いを感じるようになるのかもしれない。
当たり前に行えば、当たり前に訪れる日常が
いつの間にか崩れ落ちていくような感覚だろうか。
男女問わずその砂時計をこころとからだに宿す。
しかし男のほうがやはり、ままならない現実を
受け入れるまで時間を要す。
自分の両親を鑑にして見ると
自分の至らなさもみえてくるものがある。
もちろん至らなくて当然で、完璧であることは
不要不急の案件だ。
だが何かにつけ、似ていることをうれしく思えない
そんな自分がいる。
あんなところ自分にもないだろうか?
あんなこと自分も年取ったらするようになるんだろうか?
あんなところは真似するようになったらダメだな。
あんなこと、こんなこと・・・。
いろいろと考えてしまうことも子の立場ならあるだろう。
ソトヅラとは異なる面が内輪の家族には見えるものだ。
いい部分は少し懐疑的になり、油断大敵が頭をかすめる。
悪い部分はよりクローズアップされて自分に響いてくる。
なぜあんなふうな態度をとる必要があるんだろうか。
自分は似たような態度で接してしまってはいないだろうか。
二重の負担になるような、逃げ道をふさいでたりしてないか。
日ごろのストレスを相手にぶつけ溜飲を下げている。
それは双方がぶつけ合い、相殺されて解消されるなら
まだいいのだが。
父の弱い部分や母の弱い部分・・・自分を重ね合わせる。
自分も経年劣化していくたびになんとなく気づいてくる。
父が母を急かせるのであれば、ワタクシは逆になろう。
父と同じでは、母は逃げ場を失うのではないだろうか。
母に家事その他の多くを依存する父。
いつも通りを毎日、所望するサマはもう滑稽ですらある。
父は母が悪くなると父自身が困る、とわかっていながら、
自分のいつも通りにしたい欲を、優先して行動しがちだ。
老いていく母は時間通りにはこなせなくなる。
できていたことがしんどくなる、
低下する筋力が気力をもオトシメル。
懸命にやろうとするがうまくいかなくなってくる母。
それに対してめんどくさそうにして、寄り添えない父。
母を意図的に助け、サポートしてやることが
この家族全体や周囲のためには一番いいのではないか。
相手に対して強く出る、責める負荷のかけ方の方向が
父→母←私・・・こうなると母は苦しい。
父→母→私→父→母→私・・・の繰り返しにすると
それぞれが負荷を逃がせる道を確保できる。
そう思っていまはなるべく
母の肩を持つように意識している。
ただ人間はそうはいっても調子乗って
相手を必要以上に責め立てる瞬間もみせるときもある。
この無意識のエスカレートの瞬間には
母をいさめるべきだなと思う。
まぁ、とにかく意識してよく想像してみようと思う。
衰えゆく自分と対峙する瞬間の気持ちを。
どんな気持ちで父や母が老いを受け入れようとして
日々過ごして、受け止めていくのかを。