【投稿その1 昔のエッセイを放出します オブさん文芸部エッセイ⑦ 音楽とバイトでビンボーも楽し(下)】
そんなわけで所属サークルも決まり、いよいよ楽しいキャンパスライフ、といきたいところですが、なにしろわたしにはカネがありません。何しろ、勤めを辞めて大学に進学するにあたり、親からは勘当されて当然ながら学費・生活費など一銭も出してもらえず、当面は二年の勤めで貯めた一〇〇万円(そのうち六〇万円は入学時の学費で消え、残りはあと四〇万円)と奨学金で生活しなければならないのです。まずはアルバイトの確保が、とりあえずのわたしの最優先事項でした。
ただ、アルバイトといっても、当時の東京はあまりに多様な職種がありすぎて、自分に向いた職種を見つけるのも一苦労、最初の一月は、所持金を食いつぶすだけの日々でした。そこで、わたしはサークルの先輩・六年生の(医学部生にあらず。あくまで文理学部生)Iさんに頼みました。「何かいいバイト先はないですかねえ」。そのとたん、Iさんの目は、あやしく輝きました。「それなら、いいバイトがあるよ」。Iさんはその日の夜さっそく、わたしをそのバイト先まで連れていったのでした。
そのバイト先は、大学のあった京王線下高井戸駅から数えて三つ目、新宿からは一つ目の駅「笹塚」にあった飲み屋でした。その日は顔見せということで、仕事は翌日からだと、Iさんはわたしにしきりに酒を勧め、わたしも気分よく酔っぱらいました(二年働いていたので、わたしはこの時点ですでに二〇歳です。念のため)。その酒が、わたしのそれからのアルバイト生活のすべてを決めてしまったのではないか、と今から考えると思います。(後日、Iさんはわたしに「あの店にお前を売ったんだ」と話していました。人買いかアンタは)そのときから、店はいくつか替えながら、わたしの四年半(わははは)にわたる飲み屋アルバイト生活が始まってしまったのでした。
さて、そこから先の大学生活は、はっきりいってあまりにも忙しい日々でした。朝大学に行って夕方近くまで講義を受け、空いている時間はサークル室で音楽の練習や世間話、夕方になったらバイト先に赴いて調理場やホールの仕事で一二時近くまで。それを毎日繰り返しました。休みの日は疲れてただ寝てるだけ。旅行などもちろん行けず、近場の遊び場にも縁はありません。楽しいキャンパスライフとは、ほど遠い生活でした。
ですが、だから辛いだけの大学生活であったか、といえば、決してそんなこともありません。好きな音楽をやり、好きな研究(だけ)をやり、バイトで金を稼ぎ、自力で大学に行く。そんな生活は、実はそれなりに楽しいものでした。それはきっと、自分の力で生きている、という実感が得られていたからなのだろうと、今は思います。
【豊栄高校文芸同好会会誌「凪」第五集(2004年11月3日発行)より】