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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  新潟県人権・同和CNコラム① 「私は差別をしたことがない」という人の差別性】

今回から、新潟県人権・同和センターニュースに書いた編集後記の中から、コラム形式になっている文章をアップしていきます。前シリーズ「文芸部エッセイ」のゆるい内容とは違い、様々な差別事象について、厳しめに書いた文章です。おヒマな折にでもお読みください。

 数年前、とある「障がい」者支援関係の集会に参加したときのことです。さまざまな興味深いお話のあと、主催者がこう問いかけました。
 「今日参加された方々の中で、これまで一度も差別をしたことのない人は、手を挙げてください」。
 わたしは、まさかそのような問いかけにまともに手を挙げる人などいないだろう、と思いました。もちろんわたしも、当然ながら手は挙げませんでした。
 ところが、いたのです。手を挙げた人が。それも何人も。年齢的には四十歳以上の方々ばかりだったと思います。その方々は堂々と、自信を持って挙手しているようでした。
 そしてそのことに、わたしが強烈な違和感を憶えたことは言うまでもないでしょう。わたしは心の中で思いました。(それって、本当に本当?)

 残念ですが、部落差別を筆頭に、今の社会から差別がなくなっているとはとても言えません。それどころか、いわゆる「格差社会」がますます進行し、さらに、「強いものが勝つのは当たり前。負けるのは自己責任だ」という趣旨の主張を声高に言いつのる一部の政治家が大きな力を持つなど、現代社会はむしろ差別拡大の方向に向かっているとさえ言えるのではないか、と思います。
 そんな世の中で、「差別をしたことがない」という人は、本当にいるのでしょうか。そのように言える人は、ほとんど「神様」に近い高潔な人格者か、自分を勘違いしている人のどちらかではないでしょうか。

 人間は決して「神様」にはなれない以上、「自らの差別性」からは決して逃れられないのではないか、とわたしは考えます。少なくともわたしは、「自分は差別などしたことはない」などと言える人間ではありません。だからこそ、自分の中に必ず潜んでいる差別性に気づき、それを目をそらさずに見つめながら、厳しい反省を積み重ねる中で、一生をかけて差別を乗り越える努力をしなければならないのではないか、と思うのです。

 人権・同和センターの活動にかかわり、さまざまなことを学ばせていただく中で、あらためて、このようなことを思ったのでした。

【新潟県人権・同和センターニュース28号 2013年3月発行 より】

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