オブさんエッセイ 夜の路上ミュージシャンを見た③
「絶望した」とは違う、と書いたが、それには別の理由もある。やがてギターが弾けなくなることを見越していたというわけではないが、YAMAHAから出ていた音源内蔵シーケンサー「QY10」「QY20」を、入院前に調達していたのだ。これは、様々な楽器の音源や演奏パターン、コードがあらかじめ内蔵された器械で、今で言うDTM機器の先駆けだ。これがあれば、まだ曲作りだけは続けられる。
QY10はリウマチ発症前に買ったものだが、これは正直音源が安っぽく、QY20購入後は使わなくなった。QY20のほうは、QY10の問題点をかなり改善していてけっこう使えた。リウマチ発症の直前に作詞のたまちゃんたちと始めた「おうたのかい」は70・80年代フォーク・ポップスのユニットだったので、伴奏はQY20でけっこういけた。
ギターを弾けなくなった、という事態に直面したオレは、病室のベッドの上で、QY20を使って、たまちゃんからもらった歌詞に片っ端から曲を付けていった。手術が終わってから2か月で10曲作った。秋から冬の右肘・右手首・右肩手術の前後にさらに10曲作った。入院していた約1年で、20曲作った、ということになる。他にやることがなかった、といえばそれまでだが、まるで何かに取り憑かれているかのようなペースだった。しかも、あくまで自己評価だが、どの曲も入院前に作った曲よりよいものになっている。
しかし、その曲たちをギターで弾き語りすることは、もう永遠にできない。録音してアルバムテープを作ったらそれでお終い。野良犬の巣窟のような映画館の2階で歌うことも、路上でゲリラライブをすることも、もちろんプロのシンガーソングライターになることもできない。ギターを弾けないというのは、つまりそういうことだった。
◇ ◇
約1年の入院生活を終え、オレは退院した。両肘は多少動きがよくなり、右肩は人工関節となり、両手首は痛みの軽減と引き換えに上下動ができないよう固定され、立派? な障がい者となった。主治医は、右肩のリハビリをもっとしっかりやって可動域を広げてからの退院を勧めたが、ちょうど年度替わりでもあり、職場の人事に面倒をかけるのも憚られたので、自力でリハビリする、ということで納得してもらった。
1年ぶりに自宅に戻り、ハードケースにしまっておいたウエスタンギターを取り出した。オレにとって2本目の、そして約15年愛用してきたギターだ。1本目の、2万円で買ったキャッツアイを壊してしまったオレに、中学からの友人がくれた、木曽スズキの安ギター。しかし音や鳴りはよく、ずっと大切に使ってきた。もう、二度と弾くことはない。涙は出ないが、ため息は出た。
このギターを、当時付き合っていた女性に貰ってもらった。彼女はオレの楽曲を気に入り、おうたのかいを応援してくれていた。オレが持っていたって何の意味もないギターを、ギターを弾けない彼女は何も言わず受け取ってくれた。その後、いろいろあって彼女とは別れた。今,彼女の消息もその後ギターがどうなったのかも、オレは知らない。
オレは、オレの夢を実現するための最も重要なツールであるギターを永遠に失った。だからといって、絶望したわけじゃない。というか、オレはそもそも絶望なんかしない。音楽をあきらめたわけでもない。ギターを失ったのなら、他の手を考えればいい。手元にはQY20がある。歌詞もたまちゃんからもらえる。曲作りはできるし、うたうこともできる。ただ弾き語りができないだけだ。
しかし、力仕事が不可能となり、「今の仕事を何年かやってカネを貯めて、うたえる飲み屋をやる」という目標が失われ、オレは、必ずしも向いているとは言えない今の仕事を続けるほかなくなった。向いてはいなくても、安定はしている仕事だ。よほどの不祥事でも起こさなければ、クビになることもなくそこそこの給料をもらい生活できる。オレは絶望なんかしない。ただ、この時点でオレは「失ったもの」の大きさと重さを静かにじわじわと感じていた。
(つづく)