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オブさんエッセイ プチ障がい者営業中(番外)

プチ障がい者営業中④は後回しにして、今回は番外として、差別語について考えます。

差別語(差別目的語)を考える

 会合や集会などの公の場で、それなりの立場・役職にあるような人が、発言中にサラッと差別語(差別目的語)を使うのを聞いてしまうと、強い怒りが湧いてきます。それが「こちら側」(民主的価値や差別を許さない態度を大切にする側)と思っていた人だったりすると、怒るのと同時に、心からガッカリします。おそらく当人には差別している気持ちも自らが差別者であるという自覚もなく、無意識というか無邪気に、単なる誇張・強調表現として使っているのでしょうが、そこには、その話を聴いている人本人だけでなく、その人の家族や友人に、その差別(目的)語で苦しむ人がいるかもしれない、という想像力はみじんも感じられません。例えば、脳・精神系の病気や精神・知的障がい、自閉スペクトラムなどの特徴がある人々は、長く、特定の「差別以外に使われない」言辞によって貶められてきました。そういった人々への認識的想像力もなく、極めて「軽やか」に差別(目的)語を使用する、という態度は、やはり極めて差別的なものである、と言わざるを得ません。

 公の場でそういう差別発言と行き遭ってしまったとき、私の態度は原則次の二つに分かれます。
 その人物が一定以上の年齢で社会的発言力・影響力がある場合、なるべく間髪を入れず「差別(目的)語はやめろ!」と大声で怒鳴ります。差別発言を注意する場合、時間が経って忘れたころに注意しても、効果はあまりありません。また、年齢を経てしまった人は、なまじ経験が積み上がっていますから、自分の考えが正しい、ということで固まってしまい、他者から過ちを指摘されてもなかなか修正ができません。そういう人に後から「あの発言は差別だったよね」などと指摘しても「ああそう、そんなつもりは全然なかったよ」などということになることが多いので、現場で、即座に、厳しく、というのがよい、と私は考えています(犬猫のしつけと似ていますね)。
 また、その人物の年齢が若く、生徒・学生だったりする場合は「それは差別をするためだけの言葉だから、使ってはいけない」ということをなるべく穏やかに伝えます。学習途上の若い人たちは、未熟で経験も乏しいわけで、そういう人を厳しく追及しても始まりません。柔軟な能力・感性を持っている若者は、真面目にちゃんと教えればしっかり理解してくれます(余談ですが、足が特に痛かった十数年前は杖を使っていたのですが、出張等で東京などへ出かけて電車に乗ったりすると、席を譲ってくれるのはほぼ100%が若者でした。人権感覚は、トシヨリよりはるかに若者の方が持っていると私は思っています)。
 しかし、特に年齢を経て社会的立場を確立した人の中には、上記のような指摘をしてもかたくなに自らの差別性を認めない、という人もいます。すでに反省自体ができなくなってしまったこのような人の考えを改めてもらうのは相当困難なので、私は仕方なくその人を「差別者認定」したうえで、個人的な関わりを持たないようにします(若者へ「差別はなぜダメなのか」を伝えていく必要性を、こういうところで感じます)。

 では、差別(目的)語が全てなくなってしまえばよいのか、といえば、そんなことは全然思っていません。
 仮に「言葉狩り」によって差別(目的)語が全て「撲滅」されたとしても、人や社会に差別意識がある限り差別事象はこれまでと変わらず発生し、それに伴って新たな差別(目的)語も生み出され、また、それ自体は差別の意味合いがない語彙を組み合わせた「巧み」な差別表現も限りなく生み出されることでしょう(現に今もそうではないですか?)。差別語がなくなれば差別もなくなる、などということはないのです。
 また、過去の歴史的な書籍や漫画、映画などの芸術表現にも差別語は「普通」に使われてきました。それらの芸術表現は当時の時代状況を反映した差別表現も含めて成り立っているのであり、それを現在の感覚をもとに「差別だから削れ」などとは言えません。また、今書かれたり制作されたりしている文学作品や映画なども、テーマによっては差別(目的)語を使用しなければ作者・制作者の意図が伝わらない、ということもあります(最近観た映画『破戒』はすばらしかったです)。
 実際、言葉自体に罪があるわけではありません。罪があるのは、差別を意図して発せられる言辞であり、あるいは、自らの差別性に無自覚のまま、無意識に差別(目的)語を使用する態度です。

 差別(目的)語を知ることは、差別を知ることなのだ、と私は思います。差別(目的)語は、誰に対する、どのような差別があった(ある)のかを直接表す重要な記号です。また、差別(目的)語は、自らの差別意識を照らすものでもあります。だから、差別(目的)語を知った上で、自分の心の中にある差別意識をしっかりと自覚し、少なくとも他者に対して、あるいは公の場では絶対に使わない、ということが大事なのだと思います(最低限、心の中でどれほどどす黒い差別意識を抱えていたとしても、それは目に見えるわけではありませんから、表に出さないようにはしてほしいと思います。嘘つきな偽善者でかまいませんから、少なくとも、他者に対しては差別をしない態度をとり続けてもらいたい、と思います)。

 私たちは残念ながら、差別意識から完全に逃れることができません。それは社会を形成して生きる「知的(なのかな?)生物」としての人間の「原罪」とでも言うべきものでしょう。しかし、差別が蔓延する社会は、殺伐とした、誰もが生きにくく苦しみと悲しみに満ちた社会です。だから、私たちの先人たちは時間をかけつつ差別を解消する努力を不断に続けてきました。その努力が実り、今は、差別解消のための諸法律の整備も進み始めています。差別が解消され、多様性が保障された社会は、あらゆる人が生きやすい、心の豊かな社会です。しかし、まだまだネット上の部落差別や女性差別、LGBTQ差別、非白人外国人への差別やヘイトスピーチ、障がい者差別はなくなっていません。自らの差別性を厳しく見つめ点検しつつ、先人に倣って、差別解消の道を粘り強く歩み続けるほかないのだ、と私は改めて思っています。そういう意味で、差別(目的)語を理解し、使用しないようにすることは、差別をなくすための「はじめの一歩」だと、私は思います。

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