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オブさんエッセイ 夜の路上ミュージシャンを見た①

 喬太郎師匠独演会からの帰り道はもう夜だった。りゅーとぴあを出たのは夜8時45分。空中庭園のライトアップされた木々の向こうに、ガラス張りのりゅーとぴあが輝いていた。暗い白山公園を突っ切り、広い交差点を渡って古町通りへと向かう。

 上古町の店々は、わずかな飲食店以外はみんなとっくに店じまいしていて、どの店もシャッターが下ろされている。寄り道などできるわけもなく、下町の家へ向かって真っ直ぐ歩いて行く。人通りはほとんどない。町全体が早くも眠りについてしまったようだ。

 柾谷小路を渡り、古町7番町をさらに歩く。歴史ある夜の街も、最近は駅前や駅南の飲食店に客を取られて冴えないが、それでも、初夏を迎え暖かくなってきたためか、サラリーマンと思しき酔客が楽しそうに大声で喋りながら、飲み屋が軒を連ねる路地へと向かっているのを横目に見つつ、古町通りを真っ直ぐに下る。

 前方から、誰かが歌っている声が聞こえてきた。さらに歩みを進めると、8番町、店仕舞いした寿司屋の前で、若い男がアコースティックギターをかき鳴らして歌っている。ギターはそれほど上手いわけではないが下手でもない。弾き語りには十分だ。歌っているのは尾崎豊のバラードだ。良い声だった。歌も上手かった。オレは、そこに立ち止まるでもなく、歩きながら男の歌を聴いた。進むにつれ、その声は徐々に小さくなり、9番町に至るころにはすっかり聴こえなくなった。

◇          ◇

 若いころから、うたうことが好きだった。やがて、プロのシンガーソングライターになりたい、と思うようになった。高校・大学と、安いギターをかき鳴らしつつ歌い続けた。会社員になって、あまりの忙しさに音楽どころじゃない生活を1年半ほどしたが、その会社のあまりの理不尽さに耐えられず辞め、新潟に帰って転職し、またうたい始めた。

 転職はしたが、シンガーソングライターになる夢を諦めたわけじゃない。何年か働いて金を貯めて、歌える飲み屋を開き、そこで歌いながらプロを目指そう、などと思っていた。オレが苦手な作詞をしてくれる仲間もできた。オリジナルの曲を、野良犬の巣窟みたいな万代の映画館の2階で歌ったりしていた。そのうち路上でも歌おう、と思っていた。何の根拠もないが、絶対にプロになれると思っていた。

 ある日、オレの手の指が左右同時に腫れ始めた。腫れはどんどんひどくなり、ギターを弾くのがキツくなっていった。医者に診てもらった。問診や触診、各種検査の後、医者は、あなたは関節リウマチを発症している、と言った。

◇          ◇

 関節リウマチと診断されたのは、1990年、転職した勤め先から「晴れて」正規職員として採用されて間もないときだった。関節リウマチはいわゆる自己免疫疾患で、滑膜が異常増殖して全身の関節が徐々に壊れていく病気だ。医者は、発症の原因は不明だが、遺伝やストレスが関わっている可能性がある、と言う。オレの家族や親戚にリウマチ患者はいないが、ストレスなら思い当たる節がないわけじゃない。

 リウマチ治療は今も昔も投薬が中心だが、今とは違い、当時は弱い薬から始めて症状の変化に合わせて段階的に薬を変えたり強くしたり量を増やしたりする、というやり方だった。オレの場合症状の進行がわりと早く、特に上半身と足首に症状が強く現れた。ギターを弾くのに重要な手首と手指ももちろん腫れて痛み出した。家の近所の病院では対処できなくなり、紹介状を持たされ大学病院に転院した。

 それでもオレは、治療や薬が効いて腫れも痛みも引くと信じて医者の言うことを素直に聞き、リハビリにも励んだ。ギターも変わらず弾いて歌った。痛みはするし指も曲がりにくいが、ギターを弾くこと自体がリハビリになっているらしく、何とか弾き続けてはいられた。まあ、もともとギターはコード弾きレベルだが、弾き語りには十分だ。

 そんなふうに、仕事もしつつ日々を過ごした。症状は少しずつ悪化していった。両肘と両手首はひどく腫れ、指の変形は誰がみてもわかる状態になってきた。両肩と足首の痛みはえげつなく、仕事にも差し支えが出るレベルになった。が、それでも、腫れと痛みはオレの生活のベースだ、と思うようにして、変わらずうたっていた。曲も作った。近い将来必ずプロのシンガーソングライターになる、という思いは、全く変わることなく持ち続けていた。

 診断から数年経った3月下旬、勤め先近くの温泉銭湯で髪を洗っていたとき、左手親指に違和感を覚えた。付け根に痺れるような感覚がある。動かそうとしたが、全く動かない。何かよくないことが起こった。そのことだけはわかった。

(つづく)

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