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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  オブさん文芸部エッセイ⑧ 遅れてやってきて「活動家」になり損ない(下)】

 で、N大学文理学部に入学してみて、わたしは正直拍子抜けをしました。N大文理学部といえば、七十年安保当時の全共闘運動(と言っても今の高校生は絶対分からないだろうなあ)の拠点大学として知られていました。その当時の闘い(「戦い」ではないのですよこれが)の経過を描いたベストセラー『反逆のバリケード』の舞台となった大学なのです。
 ところが、キャンパスはいたって平穏。いかにも今どきの、ファッショナブルな学生さんたちが、さして広くもないキャンパスを闊歩しているばかりで、ヘルメットにタオル覆面、ゲバ棒を持ったいわゆる「活動家」など、どこにもいません。いや、正確には、ノンセクトラジカル(といってもやっぱり分かんないだろうなあ)の「Gヘルグループ」というのがいるにはいたのですが、その人数といったら、多く見積もってもせいぜい二十人くらい(文理学部生全体の学生数は、たぶん七~八千人)。それが春のキャンパスでジグザグデモをしている姿は、それはそれはしょぼ~いものでした。なんというか、絶滅危惧種の動物というか、滅びゆく伝統芸能の世界というか。
 考えてみれば、いや、考えなくても分かりそうなものですが、学生運動が盛り上がっていたのは、一九七〇年前後までのこと。それから十年以上も経過しているのですから、そんなもの、とっくの昔に収束しているに決まっています。そういえば、わたしの通っていた高校も、「三無主義を通り越して五無主義だ」などと先生方から批判されていたものです(むしろ先生方のほうに「活動家」みたいな人がいたような気もします)

 そんなわけで、「学生運動」に参加する夢はあっさりついえ去り、それでも社会派な音楽サークルを見つけ、そこで音楽や音楽以外の活動をするようになったわたしですが、今から考えると、「暴力による革命」を目指す運動というのは、どうもわたしの性格に合っていなかったようで、結果としてはよかったと思っています。意見の違う相手を暴力でねじ伏せて言うことを聞かせるというのは、やはり絶対に間違っていると思うからです。上記のGヘルグループの首領さんには、「お前らのような日和見改革派は(これも意味がよく分からん)殲滅してやる」と面と向かって罵られましたが、そういうことを言う人の話など、きっと誰も聞いてはくれないでしょう。
 今から考えれば、誇大かつ無謀な夢を抱いていたものだと苦笑するばかりな若いころですが、それでも、社会的に「弱い」立場に立っている人たちがより生きやすい社会になるといいなあ、と、相変わらず力不足な今でも、やっぱり思ったりするのです。

【新潟東高校文芸部誌「簓」第六集(2008年3月発行)より】

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