オブさんエッセイ 夜の路上ミュージシャンを見た⑤
さて、オレはその後も音楽を続けた。仲間たちと雑誌作りをしたり(文章書きや編集の仕事は、実はオレにとってもう一つ大切なことなんだ)、稼ぎ仕事でも珍しくやりがいを感じる仕事を請け負ったりしたため、曲作りはなかなか進まなかったが、やめたりはしなかった。オレは絶望なんかしない。10年前には左肩の人工関節置換手術のため1年間休職したが、そのときには7曲できた。それから今日まで、デスクトップソングライター(DTSW)を名乗りつつ、たまちゃんや美術評論家のOさんから歌詞をもらい、15年前に調達したヤマハQY100と昔から使っているQY20で曲作りを続けている。最近は、がばじこを主宰する新保まり子さんの導きで、ドリームハウスクルシェアで歌ったり、砂丘館などでのソロライブなどさせてもらえるようになっている。
別に、大きな転機とか契機とかがあったわけじゃない。特別な災害とか突発的な事故・事件とか思いがけない僥倖とかで人生が変わってしまった人も大勢いると思うが、あいにくオレにはそんな経験はなかった。ただ、日々の生活のちょっとしたことの積み重ねが、オレに曲作りを続けさせたような気はしている。
たとえば、職場のお客に曲を聞いてもらったらものすごく気に入ってくれたとか、職場の秋のお祭りでカラオケを作ってラジカセで伴奏を流してオリジナル曲を歌ったらとてもウケたとか、という経験は、確かに曲作りをしていてよかった、と思わせてくれた。あるいは、知人や全く知らないヤツにオレの手足の障がいをあからさまに揶揄されたり罵倒されたりしてひどくムカついた、とかの差別され体験も、「障がい者で何が悪い → 障がいがあろうがギターが弾けなかろうが音楽はやれる」という思いにつながったかもしれない。また、たまちゃんから預かっていた歌詞に曲を付けきれていなかったことが、まだまだやめられない、という理由づけになっていたようにも思う。
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今は、PCで音楽制作するDTMも当たり前になった。ボーカルすらボーカロイドに任せる音楽制作者も大勢いる。器械で作った音源はBluetoothでPAに流せる。だったらオレだって十分いける。オレはギターを永遠に失ったが、絶望なんかしていない。何しろおうたのかいは歌ものユニットだ。ギターが弾けなければ、別の手を考えればいいだけだ。実際、砂丘館やドリームハウスHOPEのソロライブでは、スマホに落とした伴奏音源をBluetoothスピーカーに飛ばして歌った。オレは、オレの声が(歌唱者として)出るうちはうたい続けるし、歌詞をいただけるうちは(自分でも書かなきゃなのだが)曲作りも続ける。オレは絶望なんかしない。
ただ、ライブで自分自身が演奏してうたうのができないことに、今でもさびしさを感じることは事実だ。オレもそれなりの時間を過ごしてきて、得たものも失ったものもそれなりにあるが、失ったもののほうが圧倒的に多いだろうと思う。ささやかなあれこれを手に入れ、たくさんの大切なものをなくしながら生きてきた。たぶんこれからもそうなのだろう。オレは絶望なんかしていない。でも、あれもこれも失ってしまった、というさびしさやかなしみも、消えずに心の底にある。
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喬太郎師匠は足を痛めていて正座ができないから演台を使って噺をする。それでなんの問題もない。オレは師匠のような一流の人間じゃないが、師匠のようにやりたいと思う。ギターが弾けなけゃ別の手を考えりゃいい。そう思いながら、暗い古町を歩くと、人気の少ない古町通で路上ミュージシャンがギターをかき鳴らしてうたっている。それを見てしまったときには、やはりいたたまれなさを感じる。感じるが、そのいたたまれなさも、オレにとってなんらかの意味があるのだろう、と自分に言い聞かせながら、振り返らず家に帰る道を真っ直ぐ歩いていく。
(この項終わり)