【投稿その1 昔のエッセイを放出します 新潟県人権・同和CNコラム②〝違い〟に対する違和感の克服】
前回に引き続いて、「自らの差別意識」について考えるコラムです。
「私は今まで差別をしたことなど一度もない」と言い切れる人が実際にいる、と知ったときは、正直驚きました。私などは、心の中に、とても他人に語ることのできないようなドロドロした差別意識を持っているという自覚があるので、「わたしは差別とは無縁だ」と言える人というのは、何か異次元の、私とは全く違う世界で生きている人なのではないか、と感じたわけです。
しかし、人間社会に生きている以上、差別意識から全く無縁でいられる人というのは、果たして存在するのでしょうか。
社会を構成しているすべての人間はだれ一人として同じではなく、それぞれの個性を持って生きている以上、〝自分と違う〟人に対する違和感を持ったことがない、という人はいないはずです。その違和感が高じて、「あの人とはどうもウマが合わない」という意識も生じ、ひいては、いじめや差別にもつながっていく、という現実があるわけです。そのような違和感を覚えたことがない、という人は、やはり、かなり鈍感で無神経な人なのだろうと思わざるを得ないのです。あるいは、自分の心の中の〝醜さ〟としっかり向き合うことのできない人だとも思います。そういう人は、重大な差別問題に直面したとき、おそらく何もできないか、むしろ、極端な差別者としての相貌を見せるのではないか、という不安を覚えます。
克服すべきなのは、そういった「自分とは違う」存在に対する違和感そのものなのではないでしょうか。〝違う〟ことは、決して不都合なことではありません。むしろ、人間社会をより幅広く豊かにしていく原動力です。社会を構成する人々がすべて自分と同じ性格や考えであるとすれば、そちらの方がよほどヘンでしょう。自分の中の、〝違い〟に対する違和感は、紛れもない差別意識だということをしっかりと自覚することが、差別をなくすための第一歩になるのだと思います。
と、このように考えると、「部落差別」というのは実に〝不思議〟な差別です。日本社会の成員として本質的に〝違い〟のない人々を、意味不明な迷信もしくは偏見によって差別するわけですから。迷信や偏見に囚われ、それを真に受けて生きている人は、一般的には〝まとも〟な人とはいえませんが、そのような人がけっこう社会の中に大手を振って生きているというのも一つの困った現実です。しかも、そういう人たちがいるために、部落差別が未だに解消されないわけで、ただ単に〝困った〟では済まされない問題でもあります。
しかし、迷信や偏見は、正しい理解と学習によって必ず解消されます。だからこそ、社会から偏見に基づく差別ををなくしていくために、学校や社会での同和教育が、きわめて重要な役割を果たさなければならないのだ、ということに、改めて気づかされるのです。
【新潟県人権・同和センターニュース29号 2013年11月号 より】