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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  新潟県人権・同和CNコラム⑥ 他者を差別する〝自由〟はあるのか】

いわゆる「ヘイト・スピーチ」に代表される差別表現から、「表現の自由」について考えます。

 イスラム過激派によるフランスの新聞社「シャルリー・エブド」襲撃・殺傷事件は、いわゆる「テロ」の恐怖を世界中に拡散させたという点で、たいへん重大な事件だと私も思います。人の命を奪うことは、人権侵害の最たるものです。したがって、あのようなテロが決して許されないのは当然です。
 そのうえで思うのですが、それでは、「シャルリー・エブド」がムハンマドの風刺画を掲載したことには、何も問題がないのでしょうか。

 宗教的に寛容な(というか無節操な)私を含めた日本人にはわかりにくいのですが、一神教社会、とりわけイスラム教社会では、宗教はすべての前提になっています。その社会に所属する人々にとって、自分の存在と宗教は切り離せないものです。「外部」の人間がその宗教を、「言論の自由」を楯にとって一方的におとしめるような(と受け取れるような)表現を行うということに、私は違和感を覚えるのです。

 部落差別をはじめとして、女性差別や人種差別、障がい者差別などあらゆる差別は、「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」(東京人権啓発企業連絡会HP)です。シャルリー・エブドの風刺画は、そういう意味では「立派な」差別表現なのではないか、と私は思います。

 「フランスには、公共空間から一切の宗教性を排除するという、厳格な政教分離『ライシテ』という原則があり、シャルリー・エブドの風刺画もそれに基づいたものであることを理解すべきだ」という意見もあるようですが、その理屈は、フランス社会に属していない人々、特に、〝西欧社会から抑圧されている〟と感じているイスラム社会の人々には、簡単には理解されないのではないか、と思います。そもそも「風刺」とは、抑圧されている側でなく、抑圧する側に向けられるべき手法なのではないでしょうか。

 「表現の自由」はもちろん大切なことです。しかしそれは、「他者を差別する表現」まで自由に行ってよい、ということではないでしょう。日本でも、在日韓国・朝鮮人などに対しての、ヘイト・スピーチやWeb上での匿名の誹謗中傷、果ては大手出版社からも刊行されている本や雑誌での差別的言辞が横行していますが、そうした表現が「表現の自由」を楯に行われている現状は、やはり看過できません。「人権侵害救済法」の制定が急がれる理由がここにあるのだ、と私は考えます。

【新潟県人権・同和センターニュース2015年3月号 より】

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