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創造を志す者のためのレッスン vol.1

 この文章は、代理店時代の激務がたたってうつ病を患った際に書いたものです。その時のわたしはまさに、生きながらに死んでいる状態。二十八歳のときのこと、十五年前の話です。二ヶ月ほど休職し、わたしは山梨県に住む画家・早川薫太郎さんのアトリエで療養することになりました。薫太郎さんと染色家で妻のいつ子さんと暮らした八ヶ岳でのシンプルな生活はわたしを再び甦らせてくれました。都会で見失ってしまった、人が人として生きる人間らしい営み。眠りから覚めると、階下から聞こえてくるいつ子さんが朝食の支度をする小気味好い音。薫太郎さんが挽いているであろう珈琲豆の濃厚な香り。部屋のカーテンを引き、窓を開け放すと朝のピリッとした冷気がどんよりとした部屋の空気を一掃します。冬枯れの匂い。

 自然と共生し、季節の食材で丁寧に食事を作り、丸テーブルを囲ってみんなで一緒にごはんを食べる。手が痺れるほどに冷たい水で顔を洗うと、一日の始まりです。朝食をすませると、各々、作品作りにいそしみます。この滞在中、わたしは薫太郎さんの口伝にひたすら耳を傾けました。薫太郎さんは、言うのです。「アッコ、書け」と。薫太郎さんの人生に起こった数奇な物語を書き付けるべく、わたしは必死でした。気づけばわたしのうつも明けていました。

 サラリーマンから独立し、街を離れ、文章を書こうと創造を志す今の礎はまさにこの体験によるもの。病気は、ギフト以外のなにものでもありません。これからお送りする文章は薫太郎さんが執筆した短編『孤島の巫女-オキノエラブ紀行-』をわたしが一部引用し、口伝による物語を付け加えたものです。いわば、薫太郎さんとの共作。短編『孤島の巫女-オキノエラブ紀行-』は旅行会社が主催する紀行文学賞の候補作として五十年以上も前に雑誌に掲載されました。扉の写真は八ヶ岳の自室のアトリエから身を乗り出す薫太郎さん。彼は三年前にこの世を去りました。薫太郎さんとの出会いは、十九歳の頃。わたしがはじめの結婚で暮らした東京都国立市でのこと。その話は、また今度。

「一週間ほど前からやァ、にいさんが来るのは解っチました。私は神の者ですから。さっき部落の者が、内地からの旅人が、家をさがしていると聞いたでやァ、その者は背が大きくて、アゴヒゲを生やしとるかャチ、私は聞きました。するとそん通りチいうもんでやァ。私はにいさんをさがしていたんです。本当によく来たやァ。」

「かんしん! 可哀想! 神のひきあわせ。ありがたい事。神の兄弟じやァ・・・。」

 薫吉は何のことやら一向に見当もつかなかったが、何か言っては、かんしん! ありがたい事! 神のひきあわせ! 不思議な事! と発する老婆を、半ば好奇、半ば成り行きまかせの気持ちで、町外れの部落の道を老婆に引かれるがままに、ついて行った。

 老婆は名を池上ヨネといい、年齢は65才。薫吉が来るのを何故解っていたのか? という疑問に答えるヨネの話は、その風貌同様にいたって奇異であった。島ではノロといわれる神がかりの巫女だ。祈トウ、お祓い、予言、そのほか医術まがいの事までやってのけていたが、その信仰する御神体は月、日の神といって、太陽と月とであるらしい。ヨネの枕辺に一週間ほど前から、連夜、明け方近くにヒゲを生やした見知らぬ大男が立ち、旅から男がやって来るのを知ったという。彼女は、薫吉の生霊のなせるわざを『神の者』としていち早くキャッチした己の優秀さを控えめに誇りながら薫吉に語った。信じがたいことである。薫吉はそれでもなお、ヨネを疑い深いまなざしと畏敬の念でもって眺めていた。やがて部落の外れ、小道の行き止まりの老婆の家に着いた時、薫吉はそこに、戦慄を覚える感動的な光景を見た。

 三百平方ばかりの土地の端と端に、二軒の粗末な家があった。一軒はトタン葺きの家で、こちらは老婆の住まいだった。もう一軒は天地根元造りを思わせる茅葺きの円錐形の家で、大きなガジュマルの樹の下にあった。これが薫吉のための住まいだとヨネは言う。薫吉はそこに、自分のイメージが寸分たがわず具現化されているのを見た。薫吉が家を出る前から、持っていたひとつの強烈なイメージ。それは薫吉のなかで、絵に描けるほどに固定化された妄想だったが、いま、こうして夢想した光景そのものが目の前にあるのだ。庭にはハイビスカス、ブーゲンビリア、その他、名を知らぬ花々が咲き乱れ、パパイヤとバナナは青い実をつけ葉が茂っている。庭から先はサトウキビ畠が続き、海に連なっているのだ。薫吉の右足は驚愕と感動にガクガクと震えだした。

 珊瑚礁の棚が続くリーフの向こうは白く波立ち、その先は見渡す限り茫漠としたエメラルド色の世界。薫吉は己のイメージとこの光景の一致をまったくの偶然とは思えなくなっていた。

 呆然とする薫吉を見て喜び笑う老婆が一層不気味に思えると同時に、得もいわれぬ親しさが、温もりのようにこみ上げて来た。


「不思議な事。かんしん! 神のひきあわせ。」

薫吉をついて出てきた言葉は老婆の口癖そのものだった。老婆はエメラルド色の世界に向かって大声を張り上げた。

「にいさんと私は神の兄弟。神の兄弟というものはあるど!」

 老婆と薫吉との出会いが偶然であれ、超自然の必然であれ、ふたつの孤独な魂は出会ったのだ。孤独な者がもつ凝縮され張りつめたエネルギーは交感し、そして溶解したのだ。薫吉はこうして粗末とはいえ六坪余りの一軒家に三ヶ月五百円の家賃を払い、ヨネと神の兄弟として沖永良部島の一角に居を構えた。

 島にはジーゼル発電の電気はあったが、薫吉の住まいは長い間空き家であったため電燈はきていなかった。薫吉は石油ランプの生活を始めた。真冬だというのに蚊と蝿がひどく、夜には屋根裏一面にヤモリがへばりつき夜の鳥のような怪奇な声で鳴き騒いだ。読書も不自由なランプの灯りは薫吉を早々にベッドに追い込む。夜は濃厚な恐怖だ。幾度目を覚ましても一向に夜は明けず、深く、とても長かった。午前一時を過ぎると島は発電をやめ、それから朝まで島には一切の灯りが消滅した。やがて墨壺に落ち込んだような闇がやってきた。海から吹きこむ風はバナナの巨大な葉を魔物の羽ばたきのように揺すぶり、ガジュマルの厚い葉を歯ぎしりのように鳴らして吹き続けた。薫吉を幼児期以来忘れていた夜の闇への恐怖が襲う。夜と昼との区別を失った都会での生活から一転し、島の夜の闇に身を置くことで、薫吉は少しずつ島の自然に接していくのだった。それは同時に、自分や他人の悦びや哀しみ、人間の底知れぬ深い闇の部分に触れていくことでもあった。昼間は拾い集めた薪で自炊をしながら、ただひたすらに自己の暗がりの心象を、色彩と線とに託した。そして疲れると、海辺に行った。

 引き潮の海辺は遥か沖合まで珊瑚礁の棚が露出し、そこには大小様々な潮溜まりができている。深い底まで透けて見えるなかに、奇態な生物と植物が目にも鮮やかな色彩となって散らばり、幻想の世界を繰り広げていた。部落から少し離れた海辺には薫吉ただひとり。フラクタルのような色彩も空間も、そこでは静寂さのあまりに凝結し、青い透明さのなかで音もなく燃え上がっている。凍りつくように張りつめた空気。音が凍るほどの無音の世界。リーフの彼方に打ちあがる白い波も、音は透明さと静寂のなかで一瞬のうちに凝固し、波の白さだけが青く冷たい中空に、幻のように立ち昇り、そして消滅した。珊瑚礁の岩の切れ間の、ほんのわずかな浜はすべてサンゴの死ガイと貝ガラだ。激しい光線のもとで、この情景は哀しみをも無意味にする非常な白さとなって薫吉を押し包んだ。それは白日のなかの、夜よりも残酷で非常に漂白された闇の世界であった。ひとり佇む薫吉をしばしば襲う透明で揮発した感情。薫吉はそのたびに背後に迫り来る魔物の気配を感じた。薫吉の魂にヨネの囁きが飛び込んできては、幾度となく薫吉を救った。


「夜道や海チ、ひとりで長く居るな、悪い死霊にとりつかれるでやァ・・・。」

薫吉は慄然とした気持ちで長いサトウキビ畠の道を逃げ帰っていった。

 陽の暮れる一日のうちでもっとも淋しい一刻。薫吉とヨネは、彼女の小屋の二十ワットの薄暗い電燈の下でよく茶をのんだ。ヨネは薫吉を相手に自己の薄幸な、そして数奇と驚異に満ちた生い立ちを鮮明に独白した。ヨネは継おっかさんに育てられた。人の子としての扱いではなく、畜生のようにだ。腹違いの妹がいたが、妹は床の間に、ヨネは土間に寝かせられた。

 7才の時である。ヨネには死人の出る家がわかった。「あん人は、いついつ死ぬよ。」ヨネの予言は決して外れることなくすべてが的中した。その幼さから、ありありと見える未来の光景を口に出したが最後、村中から気味悪がられ、石をぶっつけられたのだ。継おっかさんのさらに激昂するえげつない仕置き。少女は幼心に次第に口を利かなくなっていった。継おっかさん同様、5才離れた腹違いの妹は姉を姉とも思わず犬か何かのように扱った。しかしこんな生活にはもう慣れっこだった。そんなある日、少女は妹と水浴びをしていた。少女は陽光のもと、初めてまじまじと妹の裸の体を見た。妹の乳房は微かにふくらみを持ち始めていた。少女の痩せ細って骨ばった体。少女の体を突如、射抜くほどの激しい怒りが襲った。上顎は戦慄に震え、顔の表情は崩れた。目には大粒の涙があふれ、止まらないのである。少女はしゃくりあげながら、気持ちよさそうに水浴びをする妹に飛びかかった。自分の未発達の乳房を指差し、少女は叫ぶ。

「あんたとワシにはおんなじ血が流れておるのに、ワシはあんたの姉やのに。」

 少女は涙で前が霞み、もう何も見えなかった。そして涙は留まる事を知らなかった。寡黙な少女はろくに飯も喰えずに日々を生き抜き、そして耐え忍んだ。ある晩、少女はひもじさに生き疲れ、木の梢で餓死しようと決意した。家族の者が寝静まるのを待ち、少女は布団から這い出ると木のてっぺんまでよじ登った。

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