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五十嵐早香の140字小説は何故、面白いのか?「夜空は見るのか、見られるのか?」

 皆さんは情報が少ないコンテンツは好きでしょうか? 
 たとえば、俳句。
 わずか17文字しかありません。
 短歌でも31文字。
 その限られた文字数の中に風景や感情を表し、その限られた言葉に表されていないものを我々読み手に想像させます。説明しすぎたら文字数が無くなりますし、隠し過ぎても伝わりません。
 そんな中、140字小説という新しいタイプの短文にわれらが五十嵐早香さんがチャレンジしているじゃないですか。
 どんな題材を選ぶのか、ちょっと読んでみましょう。
 

 いかがだったでしょうか?
 静かな不吉さがある作品でしたね。
 僕は夏目漱石の「夢十夜」の第三夜的なものかと思ってたんですよ。直前に夢の話を二つしていたので。

 本文を見ていくと、舞台は「戦時中のある夜」。
 「娘」が夜空にお願いごとをするところから始まります。
 その願いは「お父さんに早く会えますように」。
 「娘」にとって、夜空は見るものであり、願いを託せるものですね。

 それに対して、次に出てくる「私」は違います。
 「今では」という言葉から、初読の時は時間の流れを感じて、もしや「私」と「娘」は同一人物で次に出てくる「娘」は全く違う「娘」で「戦争」がずっと続いているという解釈を僕はしていました。
 ただ、それだと解釈が上記以上に広がらないので、ちょっと違う読み方を考えてみます。
 「娘」と「私」は違う人間で、「私」も「娘」のようにかつては、夜空を見ていました。しかし、夜空を彩る星は「私」にとっては「無数の目」に見えて、「殺した敵兵」のように見えてしまいます。ここでは、夜空は見るものではなく、見られるものに反転しています。いつ殺したのかは、分かりません。遠い昔に殺した敵兵ならば、初読の時の解釈が通じる気がしますし、実は最近、殺した敵兵かも知れません。自分を見ている夜空を「私」は嫌いになりました。
 しかし、「娘」の願う姿をみて、「私」は嫌いな夜空に願います。
 それは、自分を見ている「殺した敵兵」をイメージさせるものと向き合う。戦争という大きな行為の一部として自分がやったことと向き合う感じがします。
 それが、最後の願いに繋がるのではないでしょうか。
 戦争のために、お父さんに会えない状況が早く終わりますようにと。
 
 素晴らしい構成の短文ですね。
 短い言葉の中で「私」の心境の変化があります。
 また、その変化を起こすものが、一つのものを自分と反対の見方をしている人というのも素晴らしいです。
 そして、140字という字数の短さから、色々と背景を想像してしまうんですよね。
 たとえば、なんでわざわざ「おとうさん」と書いているのか。どうして「私」は敵兵を殺しているのか。ひょっとして、「敵兵」の中に「おとうさん」もいたのではないか、と読みながら考えたりもしました。あるいは、「私」が「おとうさん」なんですが、なんらかの事情で言えないとか。
 とにかく、140字の中で明らかにしている情報と隠している情報のバランスがいいな、と感じました。
 是非、140字小説という競技もどんどん試していってほしいと思います。

 強いていえば、noteに書き残しておいていただけると、Xのようにタイムラインのせいで6時間ぐらいでガンガン流れて行かないし、読者もサポートが送れるので、Xで出してnoteに保存というのはどうでしょう?あと、単純にnoteというプラットフォームは文章を読むことに能動的に読む人が多いので、おすすめです。

 また、新しい引き出しを開けてきたはやか先生。
 本当に面白いです。
 ぜひぜひ、140字という限られた中で表したいことや気持ちをこれからも見せて欲しいです。
 ううむ、僕もこれやってみようかなあ。


※ ちなみに夏目漱石の「夢十夜」の第三夜はこんな感じです。
 お時間がある方は是非( 青空文庫より )。

こんな夢を見た。

 六つになる子供を負ぶってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰つぶれて、青坊主になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。

 左右は青田である。路は細い。鷺の影が時々闇に差す。

「田圃へかかったね」と背中で云った。

「どうして解る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、

「だって鷺が鳴くじゃないか」と答えた。

 すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。

 自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを背負っていては、この先どうなるか分らない。どこかうっちゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端に、背中で、

「ふふん」と云う声がした。

「何を笑うんだ」

 子供は返事をしなかった。ただ

「おとっさん、重いかい」と聞いた。

「重かあない」と答えると

「今に重くなるよ」と云った。

 自分は黙って森をめじるしにあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。

「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。

 なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左日ヶ窪、右堀田原とある。闇だのに赤い字が明らかに見えた。赤い字はいもりの腹のような色であった。

「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へなげかけていた。自分はちょっとちゅうちょした。

「遠慮しないでもいい」と小僧がまた云った。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく盲目のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」と云った。

「だから負ぶってやるからいいじゃないか」

「負ぶって貰もらってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」

 何だかいやになった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。

「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中でひとりごとのように云っている。

「何が」ときわどい声を出して聞いた。

「何がって、知ってるじゃないか」と子供はあざけるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然はっきりとは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。

 雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩もらさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。

「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」

 雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。いつしか森の中へはいっていた。いっけんばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。

「おとっさん、その杉の根のところだったね」

「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。

「文化五年辰年だろう」

 なるほど文化五年辰年らしく思われた。

「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」

 自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、こつぜんとして頭の中に起った。おれは人殺しであったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。

夏目漱石「夢十夜」より引用

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