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Mくんのこと
最近、昼夜のバランスが逆になったせいで、4時に寝て12時に起きるようになった。無職生活の悪いところだ。
昨日も3時に寝た。
目が覚めて、時計を見たら8時45分だった。
もう一度寝ようかと思ったが、眠れなかったので、読みかけの本をまた読むことにした。
Mくんと初めて会ったのは、小学1年生の時だった。
同じ保育園からの友達がいないクラスに入った僕は、入学初日から泣きそうになっていた。
僕は字が汚かった。
入学初日に先生がお世辞で「こんなにきれいな字、見たことない!」と褒めてくれた翌日に、「もっときれいにゆっくり書きなさい!」と僕を注意した時に、ここには僕の味方はいないんじゃないか、と不安になった。
でも、味方はすぐにできた。
Mくんだ。
たしかきっかけは、当時出ていた少年誌『コミックボンボン』を読んでいたことだったかな、と思う。「SDガンダム」のカードダスを僕もMくんも集めていて、カードダスと連動した『ボンボン』連載の漫画を読み、その感想を話すのが楽しかった。
僕が住んでいた愛媛県宇和島市は、僕が小さかった頃にはまだ、生活排水が流れる川やドブが沢山あった。
ある日、Mくんに家に遊びに来ないかと誘われた。
僕の家からM君の家に行こうと思うと、川を渡っていかなければいけない。きちんと橋が架かっているところまで歩こうと思うと、10分ほど歩かなければいけなかった。その代わりに歩いてすぐのところに今もあるか分からないが、古くなった電信柱や細い鉄骨のようなものが橋代わりにかけてあった。
僕は震えながら、その橋代わりの細い電信柱を渡って行ったのを覚えている。
初めてMくんの家で遊んだのは、ファミコンの「ヨッシーの卵」だった。
こんなに面白いゲームがあるのか、と衝撃を受けた。
僕の家はゲームが一時間しかできなかったが、Mくんの家は時間が特に決められていないのも驚いた。
ここは最高だ、そう思った。
僕らが1時間ほどゲームをしていると、Mくんのお父さんがやってきた。
背はそんなに高くないけれど、威厳のある人で、「ゲームばっかりしてたらダメだろ、遠くの山を見ろ」とゲームを止めさせられて、窓から二人で遠くの山を見た。山の上に宇和島城がぼんやり見える。順調に目が悪くなっている。
「山見るのつまらんね」と僕が言った。
「でも、だんだん木が見えて来るよ」と確かMくんは言っていた。
僕は、こいつ変わったやつだな、と思った。
それから、Mくんと遊ぶようになった。
他の友達の家に遊びにいって、ファミコンの「がんばれゴエモン2」をしたり、僕の家で一緒にBB戦士で遊んだりした。
負けず嫌いで意地っ張りなMくんとは、よくケンカもしたが、すぐに仲直りした。
Mくんは運動があまり得意ではなかった。
僕の隣りの家に1歳年上の幼馴染の男の子が居て、僕は彼とよく遊んでもらっていた。
1歳年上の幼馴染はスポーツが好きな子で、よくサッカーや野球に僕を誘ってくれた。Mくんも一緒にどうかと誘ってみたことがあった。でも、彼は一緒にスポーツはしなかった。僕も小学生の時は運動が苦手で足も遅かったから、同じようにスポーツが苦手なMくんがいることが心強かった。校外マラソンはいつも後ろの方を一緒に走っていた思い出がある。
小学3年生になっても、僕と彼は同じクラスになった。
多分、その頃だろうか。Mくん一家が新築の家を購入した。
前の家から歩いて3分ぐらいの距離だが、相変わらず川の向こうにあるので、震えながら電信柱を渡っていた。
新築になっても彼とやることは変わらない。ゲームだ。
学校が終わって、夕陽が沈み始めるまで、彼の家でゲームをした。
当時、スーパーファミコンの「マリオカート」や「ドラゴンボール 超武道伝」を対戦したり、交代で「ロックマンX」を進めて行った。
ゲームばかりしている僕らを彼の祖母やまだ小さい彼の妹が呆れた顔で見ていた(ご両親は多分、共働きだったんじゃないだろうか)。
そういえば、「ファイナルファンタジー4」か何かRPGのソフトも彼の家にはあった。
これはいつやるのか、と聞くとみんなが帰ってからと言っていた。
学校の帰り道。
僕は作り話をするのが好きになっていた。
なぜなら、Mくんが聞いてくれるからだ。
あの話の続きは、きっとこうなったはずだとか、あの漫画は俺ならこうするという話から始まり、近所にあるあの山にはこんな伝説がきっとあるに違いない、という小学生ならではの根拠のない話を沢山作った。彼に喜んでもらう為に色々なゲームの攻略本を何故か読みまくっていた。
小学4年生の時に初めて彼女が出来た。
嬉しかった。
一緒に図書館に行って本を読んだり、宇和島城まで自転車で行って上ったりするのが楽しかった。
少しだけ、Mくんと疎遠になった。
それでも、僕はMくんの家に行った。
気づけば、彼の家にはメガドライブも置いてあった。
このままずっと、こいつとゲームして過ごすのかな、と考えていた。
小学5年生になってクラス替えがあった。
Mくんと初めて別のクラスになった。
僕は、この2年間で新しい親友を沢山作っていった。
初めてできた彼女とは小学5年生の3月に破局した。
僕がホワイトデーのお返しを返さなかったからだ。
お返しは大事だと、子供ながらに思った。でも、別にそんなことはどうでもよくなっていた。また、好きな子が出来ていたからだ。
それから僕は親がゲームを禁止したおかげで、年上の幼馴染やクラスの親友たちを巻き込んで、サッカーをするようになった。当時は、Jリーグブームまっただ中だった。少し大きめの駐車場で僕たちはサッカーに興じた。
とにかくゲームから離れていき、Mくんの家にはあまり行かなくなった。
小学6年生になった。
Mくんとの思い出はあまりない。
もう完全に違うグループにいた。
唯一、覚えているのは、修学旅行で行った阿蘇山ではしゃいでいる姿だった。ああ、あいつも楽しそうだな、と思ったことを覚えている。その日の夜、僕は同級生のSくんに好きな子の名前を打ち明けた。最終日のフェリーの中で好きな子にそのことをばらされて泣いた。同級生の子が顔をふせて泣いている僕に「良かったね、Aちゃんもあんたのこと好きだよ」と言った声を今でも覚えている。
でも、お互いにちゃんと打ち明けられずに、そのまま中学でべつべつのクラスになった。
中学1年生になった。
僕は同じ小学校の同級生が一人も居ないクラスに入れられた。「また友達ゼロからか!」と神様を呪った。
泣きそうだった。
でも、そこから友達が増えていき、当時流行っていたバスフィッシングのクラブを作って、クラスメイトや先生と休みの日に釣りに行くようになった。
部活は1歳年上の幼馴染が先に入っていたバレーボール部に入った。
バレー部にも釣りをする子が居て、その子とも休みの日に釣りに行って、ムカつく先輩や同級生を「殺したいな」と言いながら、海や川に向かってルアーを投げた。そういうことを言うのがカッコいいと思っていた年頃だった。
Mくんは、隣りのクラスになったことだけは、入学式のクラス分け表で知っていた。
それから、数か月経って、部活の練習中にMくんのクラスの同級生員に言われた。
「最近、Mが学校来てないの知ってる?」
そうなのか、と思った。
でも、それだけだった。
事情が分からなかったし、自分にどうすることが出来るか分からなかった。
やがて、MくんのいるクラスのみんなでMくんに学校に来てほしいという手紙を書いたという話を同じ子から聞いた。
ひょっとして、と思った。
いじめじゃないか。
そして、こいつも主犯の一人じゃないのか、とも思った。ただ、困ったことにその部員は小学校の頃から、一緒にサッカーや野球もした仲間だった。それから暫くして、そのバレー部員は部活を辞めた。
それから、隣りのクラスへMくんのご両親からクラス全員分の赤ペンが贈られたという話を別の子から聞いた。
中学3年生になった。
僕の成績はお世辞にも良いとはいえなかった。
それはそうだ。毎日、部活ばかりして、家に帰ったら「新世紀エヴァンゲリオン」の角川フィルムブックを隅まで読み、「アニメージュ」のエヴァ補完計画のハガキ職人のペンネームまで覚えるぐらい読みこんでいたからだ。英語はろくに読めなかったが、「エヴァ」のアイキャッチ明けの文字は全部言えるようになっていた。
高校は特に何の疑問も持たず、山ふたつ向こうの町にある工業高校に入ることにした。男だらけの地獄だった。高校に入る2か月前に京極夏彦の「姑獲鳥の夏」を読んで文学に目覚めた僕にとっては、ここから本を一切読まない連中と3年間付き合うことになる。
Mくんは、宇和島市内の高校に入ったと母親か誰かに聞いた。
高校1年生になった。
僕はバレー部に入った。
なぜなら、1歳年上の幼馴染に「バレー部に入れ」と言われたからだ。彼は1年先に僕と同じ高校に入っていた。
ちなみに僕は登山部でやっていこうと思っていたのだが、先輩の言うことは絶対だったから、すぐに移籍した。それから僕は、先輩が辞める2年の夏までバレーを続けることになる。
ちなみにこの頃、僕はマジック・ザ・ギャザリングというカードゲームにはまっていた。部活をまたいでカードゲームサークルを作り、通販で2万円のボックスを買うために、日夜、実家でアルバイトにいそしんでいた。
この頃、小学生の修学旅行で僕の好きな子をばらしたS君と仲良くなる。
彼は、Mくんが行ったのと同じ高校に行っていたが、すぐに退学した。
モスバーガーでアルバイトしているそうだ。
髪の色はすっかり赤く変わり、昼間から商店街をうろうろしていたが、マジック・ザ・ギャザリングをするデュエリストだった。彼と、よく宇和島市の総合体育館の待合室で、デュエルをした。
ちなみに、彼は僕が勧める京極夏彦の本をどんどん読んで行ってくれた。それが物凄く嬉しかった。彼はよくザ・ピロウズを聴けと勧めてきた。お礼に僕も聴いて、ピロウズが好きになって行った。今でもピロウズは僕の一番お気に入りのバンドだ。
部活とデュエルにいそしむ僕は、すっかりMくんのことを忘れていた。
高校2年生の2月10日のことだった。
小学生から高校生になっても仲良くしている友達の家にSくんと遊びに行き、だらだらとマジック・ザ・ギャザリングをしていた。Sくんが赤のデッキを使っていたことを今でも覚えている。
飽きたので、テレビをつけた。
テレビには見慣れないどこかの海が映っていた。
「アメリカ・ハワイ州オワフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船がアメリカ海軍原子力潜水艦と衝突」
Mくんが入ったのは、宇和島水産高だった。
そして、「えひめ丸」に乗っていた。
久しぶりにみたMくんの名前がテレビ画面にあったことが不思議だった。
生まれて初めて、頭の中が真っ白になった。
「俺も退学しなかったら、あの船に乗っていた」とかつてS君は泣いていた。
僕は何が起こったのか、頭で理解できても実感はないまま、友達の家を出た。
それから数日して、ニュースの映像でアメリカへ向かうMくんのお父さんが映っていた。
凄く疲れた顔をしていたのを覚えている。
事故は日本時間の8時45分にあったそうだ。
Mくんの遺体は唯一見つからなかった。
日米の潜水隊員が200回以上、潜ったが見つからなかった。
どんな気持ちでMくんの家族が、アメリカから帰ったのかは分からない。
それから数週間して、僕は、死んだ水産高生のうちの一人の葬式にいった。中学が同じだったし、何度も喋ったことがあった。
その子と一番仲が良かった同級生が、泣いて動けなくなっていた。
船が沈没していく時に手すりを握っていたところを、生き残った同級生が見たそうだ。
Mくんはどうだったか、と一瞬、僕は知りたくなったが、それを聞くと死を認めることにもなるな、と思った。
僕の知る限り、Mくんの家は葬式はしなかったのではないかと思う。
それから僕は大学受験をして、関西に出て、社会人になった。
ちなみに今は無職だ。
転職活動をしているが、もうすぐお金もなくなるだろう。
昨日まで死んでもいいかな、と思っていた。
前の職場に友人が二人自殺した人が居て、どちらも苦しまずに死んでいたという話を聞いてその方法を調べていた。
あんなに好きだったSKE48のDVDやCDの処分も着々と進めて、服や本を捨て、両親に必要なものは全部実家に送ろうとしていた。
グーグルの検索画面を僕のスマートフォンで起動すると、ニュースがいくつも出てくる。
その中に「えひめ丸事故 今日で19年」というニュースが出てきて、不意にMくんとの日々を思い出した。
それから、暫くこの事件のことを検索した。
Mくんのお父さんは、この事件のことを未だにマスコミに多くは語らないそうだ。その気持ちは僕なんかに想像の余地はない。ゲームばかりしている僕を呆れた顔で見ていた小さかった妹は、Mくんに似た目鼻だちのすっきりした美人になっていた。
もう、1歳年上の幼馴染ともマジック・ザ・ギャザリング好きのSくんとも連絡を取っていない。僕の悪い癖で新しい環境に代わるごとに人間関係をそぎ落としていくのだ。だから、友達なんてもうほとんどいない。
その方が楽だと思っている。
去年、9年ぶりに実家に帰った時。
Mくんの家はすぐそばだったのに、行けなかった。いや、行こうとしなかった。
本当に薄情だと思う。
そして、中学1年生の時に、なんで、Mくんの家に行かなかったのか。彼が学校に来なくなってから。
一緒にマジック・ザ・ギャザリングをしたSくんみたいに、学校以外の社会や楽しみがあることを、僕は伝えることは出来なかったのか。
あれだけ遊んでくれた友達の未来を少し違うようにできたんじゃないか、と罪の意識にさいなまれる。もちろん、僕がそんな大それた存在ではないことも分かる。それでも思ってしまう。
彼の唯一の遺留品は、デジタルカメラだったそうだ。その中には3日前に行われたMくんの誕生日パーティの様子が残されていた。どんな顔だったのかは分からない。笑っていて欲しいと思う。
「同い年の子が結婚したと聞くと、もし、生きていたらと考えることがある」とMくんのお父さんの言葉が、新聞記事か何かの記事で残っていた。
彼の17年間をほんの数年一緒に過ごした友達の一人、いや、友達だったものとして、まだ生きなければいけない、とふいに思ったら、涙が出てきた。
どんなに無様でも。
彼が生きられなかった分も生きる。
Mくん、ごめん、2月10日の間に書ききれなかったや。
いつか、僕も川を渡って行くから。
あの頃より、少しうまく色々なことを話せると思うよ。
それから、いっぱい謝る。
だから、昔みたいに仲直りして、また遊んでほしい。
それじゃ、生きるよ。
※2019年に書いた記事を加筆修正しました。僕は現在、宇和島市で元気に生きています。
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