「CODA あいのうた」のスゴみ
CODA(ろう家庭の子)が主人公。
両親と兄が耳が聞こえない。主人公だけが耳が聞こえる。この環境における聞こえる者聞こえない者の両者の苦悩と葛藤と超克が描かれる。
まず、環境設定が非常にリアルなのが良い。
とにかく土台がしっかりしているからただのお涙ちょうだいな話ではない。
漁師の家庭でお金はないし、上品でキレイな環境ではない。父は幼いころから漁業一本で生きてきた海の男で、会話もいちいち下ネタだらけ。兄はマッチングアプリにハマっているし、母もそれに注意をしないどころか話に入っていく。一見ガラの悪い家庭に見える。が、その設定の根底に家族全員が「障害=聖性をもつ」というレッテルに嫌気を指しているというリアリティがある。下品なことで笑いたいし、普段から聖人みたいな生活なんかしてないよ!と。フツーに暮らしてんだ、フツーに暮らさせてよ、と。
この感覚が、リアリティを担保している。
そんなチャキチャキした家庭で育った主人公ルビー。家の仕事(漁)も手伝わないといけない(彼女がいなければファミリーにとっては通訳係がいなくなる)。ルビーはそれを自覚していて、どうせ自分の夢は追えないと思っているし、自分はこのファミリーの中からしか世界と接していないというコンプレックスも抱えている。
しかし彼女は音楽が大好き。歌を歌うという夢に向かってコーラス部の顧問のレッスンを受けて音楽大学への進学を目指す。
ここまでがこの映画の表層的で一番大きなテーマあるいはストーリーだ。
家族と子供の葛藤。
この普遍的なテーマに、CODA(ろうファミリーの子供)特有の悩みとが重なっている。しかもこのCODAが音楽が好きなのだが、その趣向を耳が聞こえないファミリーにどうやって理解してもらえるのか?という複雑な問題も主題として絡み合っている。
観客側は、ルビーの気持ちと、家族の気持ちとを理解するために、集中力をもって全キャラへの感情移入をしなきゃならないが、これを推し進める演出が随所に施されていて、とても気を遣った作品になっている。
すごいなと思ったのは、家で歌の練習するところ。
デュエット曲の練習で、ギターを弾きながら歌うんだが、ギターストラップ(革製)とアコースティックギターのストラップピンがギシギシ軋む音が録音されている。普通あんな音はノイズとして処理されて削られるだろうし、歌シーンはアフレコじゃないのかと。でもあれが聞こえることで、耳が聞こえる側の人間の集中力は増す。劇場の換気の音がうるさいと感じるほどに、劇中のノイズに耳が敏感になるのだ。
ルビーのファミリーが手話をするときに、服がこすれる音や、口も動かすから、その息遣いなんかも全部集中して聞いてしまう。生活音をとにかくレコーディングして、シーンに乗っけることで、無音有音の対比が明確なって「ああ、そういやオレは聞こえてるんだよな」と自覚に至る。
そして、ろうファミリーの言っていることをフルに知ろうと思える構図になっている。フルに知って、ろう者の感情をどんどん引き当てたくなる。
そしてその結果、兄の葛藤や優しさ、父の葛藤と男気と感動に繋がっていく。
なんて良く考え込まれた構図なんだ。
耳が聞こえない側の意見としても、手話がガチだから違和感なく感情移入できるという。手話も言語なのだから、カタコトだと冷める。この作品はファミリー全員がろうの俳優だ。聞こえる側にも聞こえない側にも最善の作りがなされている。
後半の学園祭コンサートでの無音とか、親父のリアクションとか、トラックの上での骨伝導?的に歌を感じるシーンが、そこまで積み上げてきた両者への配慮が凄い響いてくる。
今年のオスカー作品賞を受賞した作品だが、これは納得だ。
多くの人に愛され、見られるべき作品だろう。
(個人的に)惜しむらくは、無音という最強の音響テクニックを非常に効果的に使ったんだから、音響賞とるべきやろ!というところ。
ジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now」が非常に効果的な意味を持って使われていた。「双方のサイドから、今」というタイトルからも理解はしやすい。