【スタジオ・ボイス】その3
1994年12月6日。
「95年1月号シネマスタッフサーキット特集発売」
以下、その1、その2の続きです。
さてそんなわけで、他の編集者たちのテープおこしや、完全肉体労働の複写作業などを続行しつつ、自分のレギュラーの持ちページや連載も担当するようになりました。
すごく驚かれるでしょうけどこの雑誌、5〜6人の編集者だけで作ってたんですよね。
そして特集は内容によって、5人で担当を分割して作ることもあれば、写真特集、音楽特集、アート特集などなら、それぞれすごいエキスパートの担当がいたので、その一人で仕切ることもありました。
ちなみに私が全ページ一人で仕切ったのは、95年は2冊、96年は3冊でした。
そして1996年11月6日発売の12月号。これが個人的にこの雑誌での代表作となります。
90年代の「映画の渋谷系」をきっかけに、映画パブリシティのビジュアルデザインがとんでもない進化を遂げた状況をパッケージしたんですけど、全ページの編集はもちろん、ライターの寄稿原稿が他の特集より少なかったんですけど、対談・座談会・解説・キャプション・アンケートなどあらゆる原稿もすべて書き、膨大な量のビジュアルの複写も全部自分で撮影して(これが普通の編集者が絶対に経験しないこと。貧乏編集部ならでは)、デザイナーには申し訳なかったんですけど、主要なページはデザインラフも作りました。
ほぼ、個人同人誌気分。
でもこれがかつてないくらいの反響で、しかもすごく売れてくれました。
このころちょうど退社を考えてたので、最後にいい仕事をしたし、ちょうどこの年末で辞めればタイミングも完璧だと人事にもそう伝えてたのですが、このときある同僚から悪魔の囁き。
「冬のボーナス、12月に出ないかもしれないから、1月退社にしたほうがいいよ」
まあめちゃくちゃ少額とはいえもらえるものはもらっておきたい。
というわけでその同僚のアドバイスどおりにしたら、そこで一言。
「3月号、エヴァンゲリオン特集をやるんだけど、2色8ページ、エヴァ以前のアニメのまとめが欲しい。ガンダムでもイデオンでも好きなの載せていいから作って」
なるほど。人の退社を引き伸ばしたのはそんな目論見があったからか。
ボーナスとガンダムというニンジンを目の前にぶら下げられた私のその年の、本当なら辞めてたはずのクリスマスイブ。
1996年12月24日「普通に出勤して、映画コラムの原稿書いて、CAPでエヴァンゲリオン特集2Cページ入稿。帰宅後、一人ワイン&パスタ。とくに何もないクリスマスイブ」
寂しいじゃないか私って者は。
そして年が明けて1月21日、エヴァ特集の色校をチェックして最後の出勤日を終えたのでした。
そして話はここで終わらず。
一応この雑誌での私のエンディングは、「96年にいちばん売れ行きがよかった映画特集を作り上げて辞めた」というかっこいいストーリーだったはず。
しかし。
1997年2月21日「3月号エヴァンゲリオン特集が増刷するほどの大売れらしく、担当、新人、宣伝と打ち上げ」
おい。「この雑誌史上初の増刷号を手伝って辞めた」という中途半端なストーリーになっちゃったじゃないか。