大切なものを失い気づいたこと
9年という長い間、僕は自転車の鍵を無くさずに生きてきた。
たまにハンカチと共に洗濯機に流したり、小銭入れに入れたのを忘れて2、3日が過ぎたことはあったけれど、それは無くした内には入らない。
しかし今回、クローゼットの奥に眠るダッフルコートのポケットや、玄関の靴箱にあるスニーカーの爪先、リビングのソファの下や掃除機に溜まったゴミの中まで、考えられるあらゆる可能性を探ったが鍵は見当たらない。
一般的に物を無くしてから見つかるまでのには3日から、長くても5日だという。
鍵の不在に気付いたあの日からは、既に9日が経過しているから僕はもう鍵を無くしたと認めざるを得ない。
それでも僕はまだどこかで、鍵が見つかる可能性を捨てきれないでいる。ある晴れた日曜日の昼下がりに玄関を出て、何気なくポケットを探ると久し振りにその感触に驚き、思わず駐輪場を振り返るような日が訪れるかもしれない。
それは、僕が求める数少ない幸福な日常のひとつになり得るだろう。
鍵の不在をどう捉えるかはさておき、今の僕には現実をどう生きるかを考えるのが何よりも重要だ。
それを考えることで、一時的に鍵の不在を認めることにはなるが、僕の日常には欠かせない問題なのだ。
もちろん、歩いて街中の本屋や駅前の喫茶店に行くには時間や労力を要するだろう。
だけどそれは、日常を過ごす上で必要な経費のようなものだ。
それよりも自転車がないことで、本屋の店主や喫茶店のマスターに不憫に思われるのは避けなければならない。
「お前もアレを無くして憐れな人生を歩んでいるのか」と。
特に喫茶店のマスターは、息子の中学校の入学祝に自転車を買い与えが、彼は翌日にその鍵を無くした。ただの不注意が招いた偶然だが、彼にとってはその後の人生を左右する悲劇だった。それ以来、息子は徒歩生活を余儀なくされたから、鍵を無くしたことを知ったら、マスターは僕に同情するかもしれない。
だからマスターには、ダイエットをしていると説明しよう。いや、僕は身長は175センチで体重が54キロだ。つまりダイエットをするには痩せ過ぎているのだ。それに駅前の急な坂道を踏まえれば、カロリー消費という点で自転車の方が適しているだろう。さらにダイエットをしているといえば、喫茶店でパンケーキのオーダーを控えなければならない。マスターのパンケーキは唯一無二だ。それを味わうために喫茶店に長年通っているのだから、パンケーキは必ず食べなければならない。
僕は自転車の鍵を無くしたことで、長らく誇りにしてきた自らの体型に初めて腹立たしさを感じることになったのだ。
一先ず、喫茶店のマスターには本屋の駐輪場に、本屋の店主には喫茶店の裏に自転車を置いてきたと説明しよう。もちろん彼らに聞かれてからそれを説明するつもりだ。聞かれもしないことを話し出すのは、自ら弱みを相手に見せることになる。それは僕が生きてきた中で学んだ数少ない教訓のひとつだ。嘘の精度が低いのを自覚しているからこそ、いかに日常を装うかが重要なのだ。
もちろん長年通ってきた客として、彼らには嘘をつくのは耐え難いが、真実を伝えて憐れみの目で見られるよりはましだ。
それより、僕の自転車を愛してくれた彼女はもう鍵の不在に気づいているだろうか。
彼女と出会った頃の僕はどこに行くにも自転車を使っていた。
あるとき、街中の八百屋で野菜を選ぶ数分の間だけでも、自転車から離れるからと鍵をかける僕を見て彼女は言った。
「あなたって見かけによらず用心深いのね」
「僕はただ自転車を大切にしているだけだ」
僕は自転車のカゴにちょうど良く入るぐらい大きなカボチャを手にしながら言った。
その日の夕食はカボチャの炊き込みご飯だった。
炊き込みご飯を一緒に食べた後、彼女は僕の自転車の鍵を手にした。
後にも先にも彼女が僕の自転車の鍵を手にしたのは、そのときだけだ。
「ちょっとお酒買って来るから自転車貸りてもいい」
「もちろん、君が僕の自転車に乗ってくれるなんて嬉しいよ」
その夜彼女は、缶ビールを飲みながら僕に言った。
「私もあなたの自転車が大好きだから、鍵は無くさないでね」
そんな彼女もそれなりに年を重ねて愛車を買った。愛車を乗り回す彼女が、まだ僕の自転車のことを好きでいてくれているかが不安だった。
そして先週末、彼女の愛車で海岸線を走っているとき前触れもなく彼女は言った。
「あなたもそろそろ大人の男として、車を買った方がいいわ。自転車を下取りに出してローンを組めば買えるでしょ」
いや、僕が前触れに気づかなかっただけで、彼女は長らく葛藤していたのかもしれない。
愛車を運転する彼女のサングラスの奥の瞳は、そう遠くはない未来を見ていたのだろう。
「マスターに何て説明するんだ。あの喫茶店には駐車場はおろか、駐輪場もないんだぜ」
自転車を下取りに出す未来が想像出来なかった僕は強がった。
「そう、なら仕方ないわね。今のあなたには助手席がお似合いね」
そう言うと彼女は苛立ちを隠すことなく強くアクセルを踏み込んだ。
僕は助手席から、無情にも早く過ぎ去っていく海岸線をただ黙って見ることしか出来なかった。そのときこそ、鍵を無くしたという真実を話すべきだったのだろう。僕には現実を受け入れる覚悟も、真実を話す勇気もなかったのだ。
そして今は決して乗ることの出来ない自転車が駐輪場に佇んでいる。
それは開かれることのない廃墟の扉のように、存在感だけを示し、内側から僕を圧倒した。
実用には至らない代物なりの抗いなのかもしれないが、その切実な抗いが僕の決意を後押ししたのだ。
彼女にだけは真実を話そう。僕はそう決意した。華麗な虚偽よりも薄汚い真実を彼女は受け入れてくれるだろう。
その真実を告げたら、僕はローンを組む覚悟を決めなければならない。分割払いと共に生きる未来を見ているのは彼女だけではないからだ。
真実を話す決意をした僕は彼女の助手席に乗った。僕が運転席に座る未来もそう遠くはないはずだ。
「今日は君に話したいことがあるんだ」
「わたしもあなたに話さなければならないことがあるの」
彼女が愛車のエンジンを入れたとき、そのハンドルの下にかかったキーホルダーに、僕が探し求めていた物が見えた。それは紛れもなく僕の自転車の鍵だった。
それに気付いた僕を見ると彼女は、サングラスを外して僕を見た。
「ローンを組む覚悟は出来たのかしら」
僕は思わず彼女の瞳から目をそらした。
僕は自転車の鍵を取り、彼女の愛車から降りて駐輪所へと向かった。
今こそ自転車で喫茶店へ行き、マスターが焼くパンケーキが食べたかった。