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イズミさんが本音を語った夜

カラスの書斎の店主であるイズミさんが自らを語ることは珍しい。

自らを語ることを好まないのか、接客の在り方なのか、イズミさんは常に聞き役のままで間を持たせるし、何よりイズミさんを前にして退屈したことはない。
例えば1人酒に向き合いたい夜にも、いつの間にか酒から目を離し、気付けばイズミさんに語りかけている。

カラスの書斎というバーは、イズミさんに誘われ辿り着いた館の片隅にあるような、異質でありながらも寛ぎに包まれた空間だ。

ソファの型や絨毯の模様、照明の色合いなど細部までイズミさんの表現に満ちていて、書斎と名の付く通り所々に連なっている本はバックバーのハードリカーを凌駕している。


イズミさんに名付けられたフルーツや野菜のカクテル達は、本の体裁をしたメニューの中から選ばれ、リキュールと出会える時を待ち焦がれているのだろう。
彼、彼女らは念願のオーダーを受けると、アルコールと共にイズミさんの柔らかく滑らかなシェイクに導かれ、優しく味覚に届けられる。

そんな言葉で語らない表現に満ち溢れたイズミさんが、1度だけ自らの思いを話してくれた夜を思い出す。


数日前に、私は別のバーのバーテンダーとカラスの書斎に飲みに行き、カウンターでカクテルやウイスキーについて話していた。

「バーボンの水割がスコッチの水割やバーボンのソーダ割には敵わないなら、バーボンの水割をソーダ割より美味しく作ることは出来ないのかな」
私は一緒に飲みに来たバーテンダーに自身の考えを語っていた。

イズミさんは私達の会話に入ることはなかったが、グラスを洗ったりボトルを整理したりしながら我々の会話に耳を傾けていたのだろう。


カウンターが私1人だけになるとイズミさんは、前回私が飲みに来た時の話題に触れながら、少しずつ本心に近づいていった。

話すトーンや言葉はいつも通り穏やかだが、そこにイズミさんの確かな感情が流れ初めていた。
私はウイスキーの水割りが入ったグラスから目を離し、イズミさんが語る言葉に耳を傾けた。

それはイズミさんが誰彼でなく、私に対して自らの言葉で打ち明けてくれた偽りない本音だった。

僕もあんな風に語り合いたいと思うことがあるんです

遠慮がちに自身の気持ちを言葉にすると、イズミさんはオーディオのCDを切り替え、そのメロディに合わせ音量を調整した。

イズミさんの本音を聞いた私は、それを掘り下げて聞きたい気持ちが溢れかけていた。私はイズミさんの表情を見て言葉を飲み込み、いつも水割りで味わうウイスキーをオンザロックでオーダーしてゆっくりと味わい、酒と自分に向き合った。

午前3時に最も色濃く奇妙な気配を漂わすカラスの書斎は、その夜ひときわ静けさの精度を高めていた。
イズミさんが多くを語らない分、その空間がイズミさんの思いを雄弁に語っているようにも感じられた。

外に出れば夜は既に明けていて、カラスが夜の余韻を忙しなく溶かしていた。

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