夏祭り、海水浴、花火大会、ときどき世界観(No.31)
きみがいた夏は♪
遠い夢の中あぁ〜
空に消えてった
打ち上げ花火〜〜
“どこどんどこどんどこどんどん”
“どこどんどこどんどこどんどん”(太鼓の音)
太鼓の音+祭り屋台と盆踊り=夏祭り(Whiteberry)の図式ができて、脳内再生されて頭の中に響きわたる。
「ああ、夏だなー」と感じた例の一つだ。
どの季節においても、春夏秋冬を感じる場面は多くあるはず。
今回のように夏を例にあげるなら、
セミの鳴き声
花火
海や海の家
かき氷
浴衣
お祭り
サンダル
挙げだしたらキリがない。
脈絡もなく話始めてしまったが、このnoteを書くキッカケになったのは先日たまたま通りかかった時に夏祭りをやっていたからだ。
夏を何年も経験していると、
「今年の夏は色々満喫したなー」
と思うこともあれば、
「今年の夏はあっという間だったなー」
ということもある。
これは僕の所感だが、今まで生きてきた中で夏祭りに参加した時はだいたい
「今年の夏は色々満喫したなー」
の感想になることが多い。
夏祭りは夏を満喫するための一例にすぎず、他にも海や花火などももちろん夏を堪能するための代表例だ。
夏に充実感を感じるポイントは何かと考えたときに大事になるのが、文脈作り。
夏祭りや海水浴といったイベント事ではなく、夏という言葉に対するイメージ(夏といったら?)に対してどれだけ関連する要素を紐付けたかによると考えていてね。
だから世間的なイメージとして出来上がってる夏と言えば?を体験したり、数が多いとその分だけ記憶によく残るから、見返したときに記憶から引っ張り出しやすくて充実感を感じやすいという構図かな。
ここで1つ疑問がでてくる。
世間的な夏のイメージから逸れるものを自分は夏の風物詩として持っているけど、これは文脈に含まれるのか?
というもの。
もちろん、含まれるが僕の回答だ。
あくまで、夏祭りも海水浴も世間が夏のイメージに付随するものとして作りだしたものなので、そこから脱線したからといって気に病む必要はない。
文脈とは解釈なので、解釈そのものは人の数だけ存在する。
なので、究極は自分が納得すればOK。
これだけだとただの日記になってしまうので、ここらでSNSや情報発信でたびたびみかける「世界観」と絡めて話していこうかな。
先程の話しに出てきた”夏”を一つの世界(世界観)だと捉えてほしい。
夏の充実感を感じるために、夏のイメージに近いものと紐付くものを経験することが必要な要素と上記で述べた。
これは1つに絞る必要はなくて、夏祭りや海水浴、肝試しなど複数のものを組み合わせて総合的に夏を感じるという方法もある。
むしろ、後者の複数組み合わせて夏を感じる方法の方が参考にしやすいかな。
悲しいことに僕たちは年数や経験が増えるほど、今までの記憶にあるものを越えるものでないと刺激的な(印象に残る)経験としては受け取りづらくなる。
例の夏祭りでいえば、やっぽど経験したことない魅力溢れる夏祭りでないと、「あー夏祭りそういえば行ったな。」のような充実感を感じることすらなくなる経験にまで格下げされてしまう。
(純粋に悲しいし、記憶とは残酷😇)
逆に一泊二日で1日目は海水浴を楽しみ、夜には花火大会の会場に浴衣を着て屋台で腹ごしらえをしてから花火を見る。二日目はガラス細工の体験が目的地の近くにあったので立ち寄って、夏だしせっかくだから風鈴でも作ろうかってなり工作。手土産を買うのに近くの市場に立ち寄り地元の美味しい海鮮(夏の旬魚)を堪能する。
ちょっと極端かもしれないが、夏の風物詩と言われるものを複数組み合わせて体験するだけでもだいぶ夏の充実感は変わるのでは無いだろうか。
“夏”という世界の中で、夏の風物詩というのはいわば文脈。
このように考えると、SNSに存在する発信者それぞれの世界観を堪能するにはその人の風物詩は何かを見極める事に繋がってくる。
ただ多くの人はテンプレや悪魔的ノウハウ、ライティングのような、夏祭りや海水浴などにあたる文脈に主眼を置きすぎている気が。
“夏”という素晴らしい季節を上手く伝えるための要素として夏祭りや海水浴があるのに、夏祭りや海水浴がごりごりの主役になっている本末転倒の状態。
これら海水浴や夏祭り(テンプレやライティング)がなくなったら一体どうやって夏(自分という世界観)を表現していくのだろうか?
日常が変わってしまうというのはすでに僕らは3年前の流行り風邪で経験しているのにもかかわらず。
自分の世界観を表現するのに上手く伝わる方法がライティングであったり、悪魔的ノウハウという位置付けにしないとアカウント転生のループにハマってしまうし、何より「これ自分でなくて良くない?」という自問自答の日々が訪れる。
見る専の人からしても、「ライティングや悪魔的ノウハウが配信されないなら別の人でいいや!」とそっぽむかれてしまう。
夏祭り1つとっても、
かき氷
花火
浴衣
金魚すくい
蚊に刺される
など更に細かくではあるが夏を感じられる文脈が散りばめられている。
マトリョーシカのように小さなものを大きなもので次々と包んでいくやり方で、言語学では類と種と言われているが、本題とズレてしまうのでここでは割愛。
この類と種を使ったやり方もより夏(世界観)を堪能させるためのフレームワークだけど、ライティングや悪魔的ノウハウと違って直接は見えてこないから色々な事に応用しやすい。
一番言いたかったのは、
自分を表現するための文脈を多数揃える
のが、人と被らずに余計なストレスを減らすための一つの選択肢だよねってこと!
P.S
祇園祭りとか一度でいいから行ってみたい今日この頃
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