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体験の追求と体験的理解

行為それ自体が目的となるような行為こそが幸福だ


僕たちは日頃メリットやデメリット、価値など頭の中で沢山のことを考えながら選択を行っている。一方で歯磨きなどの習慣のように、何も考えずにぼんやりと行動を起こしていたりもするだろう。

物事の取捨選択において、歯磨きのような行為はそれ自体を目的にしているように見えても、実際はメリットやデメリットを考えて行動している。歯磨きを口臭のケアをする、歯を白くするなどといった目的以外に、歯磨きという行為を純粋に味わうというのはなかなかイメージが湧かないだろう。

そこで、本書の理解を深めるために僕自身が選んだテーマは旅行だ。なぜなら、旅行は移動や観光先、食べるものなど全てを意識的に体験を味わうことが可能だから。つまり、旅行は旅行での体験を味わうことを目的にしている。また、旅行で味わえる体験は旅行者にとっては非日常であるが、旅行先の生活者にとっては日常という2つの側面を持つため、旅行で味わった体験の感覚を普段の日常にも取り入れやすいと思ったのも理由の1つ。

前置きが長くなってしまったが、このnoteは体験の哲学というしおりを元に、僕自身の旅行体験を組み合わせた読書感想文だ。


広島の体験の哲学


4年前の8月3日、真夏の炎天下の中訪れたことを今でもよく覚えている。

歳を重ねるごとに1年があっという間だと感じることが多くなるが、この広島での旅行体験は長く感じ、かなり意識的に味わったのだろうとnoteを書きながら振り返っている。

広島の尾道と愛媛の今治を結ぶ約75kmのサイクリングロード(しまなみ海道と呼ぶ)を広島で体験した。橋を渡りながら6つの島を転々としていくコースだ。海に囲まれているので潮の香りや風当たりが心地良く、自然を満喫できるサイクリストの聖地と言われるほどのスポット。起伏がかなりあるので、平地を走るよりかなり根気がいる(無事に完走しました!)。山登りをしているような感じで、同じように自転車を漕いでいる人とすれ違う時にする「こんにちは」はとても清々しく気持ちがいい。

詳しい内容は割愛するが、旅行の醍醐味はやっぱりこういった旅行中に行う体験だ。本書に、

私は、基本的に「実践しないで知識だけを得るような学習」は、(それ自体が娯楽もしくは職業として専門的にやっているのでないかぎりは)哲学であれ何であれ、それこそ役に立たないと思っています。

とあるが僕はこの意見に大賛成。

ネットや人から聞いた話で頭の中だけの体験に留めるのはもったいない。実際に訪れて全身で体験を堪能し、自分の意識に起こったものがその人独自の体験になると考えている。例えば誰かとこのしまなみ海道の話になったとする。あなたはしまなみ海道という名前は知っているが、実際に訪れたことはない。あなたは共感ではなくただの相槌を打つだけになるだろう。なぜなら、それは体験ではなくただの頭の中での知識にすぎないからだ。


京都の構造主義


突然だが、あなたは京都といえば何を思い浮かべるだろうか?


・・・・・・・・・・。


僕はざっと次のようなものが思い浮かんだ。

お寺、神社、紅葉、八ツ橋、観光都市、宇治抹茶、バス、納涼床、鴨川、舞妓さん、京都弁、修学旅行、、、、

挙げ出すとキリがないが、人それぞれ浮かぶものは違うと思う。

ここで言いたいのは、今挙げてもらったものは京都を表すものではなく、あなたが抱く京都へのイメージということだ。語弊があるかもしれないので、本書に書かれている一部を引用したい。

構造主義とは、主にフランスで発展していった現代思想のひとつで、(誤解を恐れずざっくりと言えば)「人間は自由な意志を持って物事を選んでいるつもりでも、実は何らかの構造(システム)によって行動を選ばされているだけだよ」という考え方です。

偏った例えかもしれないが、京都を訪れたとしても僕たちはスタバで抹茶クリームフラペチーノを飲むことはできるし、京都駅前のジャンカラに行きカラオケを楽しむこともできる。

沢山の選択肢がある中で、「せっかく京都にきたから!」と着物を着て観光したり、鴨川の納涼床を楽しんだり、お土産に八ツ橋を選んだりする。もちろん楽しみ方は人それぞれだし、こういう楽しみ方が京都だというものもない。

ただ京都にも美味しいラーメン屋は沢山存在するし、こだわりのコーヒーを出すカフェなども沢山ある。

ここで伝えたいことは、自身のイメージに応じた楽しみ方や体験をしているということを自覚し、思い込みは身近に存在するという体験的な理解を得て、自分の体験の質を高めていきたいよねということ。


沖縄で純粋経験


最後に選んだのは沖縄。本書の大事な要素である純粋経験を理解するヒントになる場所だと個人的には思う。

なぜなら、沖縄には圧倒的な自然「海」が存在するからだ。先に純粋経験について本書の内容を引用する。

日本を代表する哲学者の西田幾多郎は、その主著の中で「純粋経験こそが真の実在だ」と述べていますが、ここでいう「純粋経験」とは「まだ判断が加えられていない生の経験」のことです。
常識的にはまず「私と世界(主観と客観)」が存在し、その後「私が世界を知覚することで経験が発生する」という順番で考えるわけですが、西田哲学はその逆。まず先に「経験」が存在し、その後「判断によって私と世界が生み出される」という考え方をするのです。

本書では、この純粋経験のヒントとして芸術鑑賞を挙げている。

偉大な芸術作品を前に圧倒されてただただその作品に見とれているとき、作品と私の区別はなくなり、まるで芸術作品と一体となったような感覚を味わうときがあります。西田によれば、この主客未分の瞬間こそが「純粋経験」であり、その経験そのものが「真の自己」だということです。

この一節を読んで、僕は沖縄でシュノーケルをした時の感覚とリンクした。

初めて沖縄の海(座間味島の古座間味ビーチ)でシュノーケリングをした時のことは今でも忘れられない。

水族館で見るような熱帯魚が自分の手の届く範囲で泳いでいて、大きなサンゴ礁や遠くまで見渡せる青く透明度が高い海が広大に広がっていることを。ただただ夢中になって泳いでいると、体温も海の水温に慣れて違和感も徐々になくなってくる。海と一体化したような感覚だ。

何かの拍子で鼻や口の中に海水が入ってきたときに、息が苦しくなり我に返って海の中にいたことを自覚する。

楽しむ事が大事、好きなことをしようなどの言葉をよく耳にするが、これらを僕は自分を客観視せずに純粋に物事や体験を味わうことに幸福を見出そうよという解釈をしている。

客観視は自分を俯瞰して見ることなので、どうしても言語化が脳内で発生してしまう。言語化自体は悪いことではなく、むしろ多くの人に追体験や思考のきっかけになるものなので大事なことだ。

本書にもあるが、物事や体験を味わっている最中は没頭して何も考えなくていいと思う。

夢中になれる体験を見つけることは、冒頭に書いたアリストテレスが語る幸福の定義に繋がるのではないだろうか。


最後に


この本のおかげで読書感想文を書く、著者を知れたこと、普段の記事とは違った視点での執筆の機会(体験)を与えていただいたことに感謝します。

個人的には自分の好きなことの一つが旅行であり、体験したことをこのように後から言語化してみたら色々書きたい事が出てきました。

自分の五感を全て使って味わった体験はたとえ後から思い出しても鮮明に記憶してるものだなと。

言語化に力を入れてnoteを書いているからこそ、本書は自分を見つめ直すきっかけになった良い読書体験です。

またこのような機会があったらぜひ参加します!









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