自由をどうしよう(僕のマニフェスト2)
ここまで考えてきたように、僕らが「不幸な遊戯者」であることを疑うことはできないだろう。“個の自由”とは、“自由”という開放的な印象とは裏腹に重大な困難を抱えている。
しかしである。ここで一旦、自分の胸にあるいは窓の外に耳をすませてみよう。僕らは自らが「不幸な遊戯者」であるということを感じ、苦しんで日常を送っているだろうか。いいや、現実にはその気配はしつつも、僕らは自由であり、力強く“個”であると感じないだろうか。つまり、現代の“個”を取り巻く社会は、僕らが「不幸な遊戯者」であることを表面的には解決したのではないかという仮説を立ててみたい。と同時に、新たな困難を生み出したという仮説も立てたいのだ。
ここからは、現代における“個”さらには”個の自由”を考えるために、現代の世界の特性を考ていく。その特性が、“個”を生み出し、“個”に反映されているのだ。
世界を色付けるもの
現代を基礎付けている主要素のひとつが資本主義であるということは公然である。一方で、ここでは、それが急速に発展するインターネットとA Iをも巧みに取り込み、強烈な影響を与えることで世界を特徴付けていることを確認したい。粗雑ながら、それらの特性を考えよう。
インターネットは僕らのコミュニケーションを根本から変えた。それが可能にしたコミュニケーションの本質は「距離よりもトポロジー」である。つまり、そこではつながる両者の距離や位置を問題とせず、何と何がつながっているか、どのようにつながっているかに関心が置かれる。そして、このコミュニケーションを制するのはよりつながりを集めるものであり、よりつながりに影響を与えるものだ。つながりが更なるつながりを集める。
また、そのつながりは双方向であるということにも留意しておこう。これまでのつながりは、得てして一方通行であった。権力のあるもの、経済力のあるもの、特権を持つものなどが、その他の大勢に向かって発信をしていた。一方で、インターネットを基盤とするコミュニケーション、特にS N Sにおいては誰しもが受信者であると同時に発信者である。
そしてA Iは、そのインターネットと相互作用することで、これまでになく高精度な、量的な最適解を生み出す存在となった。インターネットを基盤とした相互的なコミュニケーションにより、これまでにないほどの膨大なデータを収集することが可能になった。A Iはその膨大なデータを解析し、それを前提とした最適解を生み出す。さらに、最近では専門的なプログラミングを必要とせず、自然言語での問いかけに対して、データ解析を瞬時に行い、最適解を提供するA Iまで登場した。
これらを実現したインターネットやA Iはどのように資本主義に取り込まれていったのか。今やそれによる現象は至るところに見られるが、ここで注目したいのは即時性・細分性を極めたマーケティングとS N Sによるコミュニケーション空間の特性だ。
用意され続ける
インターネットとA Iの相互作用は、経済活動に、特にマーケティングにおいて、強烈な影響を与えた。すでに述べたように、膨大なデータの収集とその解析が可能にしたのは、そのデータを前提とした最適解の抽出だ。それがマーケティングに活用された時、実現されたのは圧倒的な制度の需要予測である。それはもはやターゲットの細分化をとうに超え、パーソナライズとほぼ同義な程度にまでなっている。個々人のネット検索や、購入履歴から需要を予測し、ターゲットに直接最適なタイミングで、最適な媒体で広告を打つ。それがほぼリアルタイムで処理される。これが極めて効果的であったことは言うまでもない。そしてそれが対象とするのは購買行為だけに止まらない。動画プラットフォームやネット記事なども、似通った内容や関連する内容のみを優先的に表示する。なぜならば、それらのメディアやプラットフォームが収益を最大化するための最適解は、そのメディアに利用者をなるべく長い間釘付けにすることだからだ。また適度に新たな内容やテーマを入れ込むことで飽きさせないようにすることもそのミソである。こうした構造は僕らが変化せず、凝り固まっていくことを容易に想像させるだろう。資本主義における合理的なツールとして極めて効果的に機能しているインターネットとA Iの相乗効果によって、僕らは絶えず用意され、絶えず更新され続ける。しかし、それらは過去の自分を前提にしてなされることを見逃してはならない。利益向上のために都合のいい更新をされるに過ぎないことを見逃してはならない。
つながりの中で
S N Sに代表されるインターネットを基盤としたコミュニケーション空間は、当初絶大な期待を寄せられていた。それは誰もが受信者であると同時に、誰もが発信者であるという点においてだ。つまり、今までは埋もれていた少数派の人々や支配を受ける人々、政治的・経済的弱者にも、平等に発言の機会が与えられることにおいてだ。それによって直接民主制が実現し、あるいは発信者になることで人々の思考が深まるとさえ期待された。しかし、実際のところはどうだっただろう。弱者の意見が反映され、現実が変化しているだろうか。私たちはより考えるようになっただろうか。とてもそうは思えないのだ。
既に述べたように、「距離よりもトポロジー」を本質とするこのコミュニケーション空間においては、より多くつながりを集めるものが、よりつながりに影響を与えるものが力を持つ。その性質は余すことなく資本主義の運動に取り込まれた。フォロワーやいいね、リツイートといった極めて単純な量的基準が目標として設定され、分かりやすく可視化された承認に人々をのめり込ませ、あるいは人々を量的な増加という一方向に向かわせる。そのようなコミュニケーション空間が、人々の思考を深め、弱者の意見を反映し、現実を改善しようとする方向に向かわないことは明らかだ。そこで行われるのは、期待されたような現実に対する建設的なコミュニケーションではない。もちろんそのようなものも生まれているのだろうが、それはそうでない大多数によって埋もれ、大多数がさらなる増殖を続けている。あるいは、そのような議論が大々的に行われるにしても、それは資本主義を推し進めるためのエネルギーとしてなのだ。
匿名な僕ら
現代においてインターネットとAIは、このような特性の事象を生み出した。そしてそれらの事象は資本主義の運動に取り込まれることで急速に発展し、その特性を強めていったということはここまでに触れてきた通りである。
ここから僕らが考えたいのは、それらの特性が“個の自由”にどのような影響を与えたのかということである。まず、現代において僕らがあの「不幸な遊戯者」であったことを思い出そう。というのも、以上のようなインターネットやA Iが生み出した事象は僕らが「不幸な遊戯者」であるという問題からの避難先として機能していたという仮説を立てたいがためである。しかし強調しなければならないのは、それが解決策ではなく避難先であるということだ。見せかけであり、錯覚であるということだ。
資本主義に取り込まれたインターネットとA Iの相互作用によって実現された、即時性・細分性を極めたマーケティングとS N Sによるコミュニケーション空間における共通点は、それらが僕らのあるべき姿を、目指すべき姿を、示すことにある。ところで、「不幸な遊戯者」としての“個人”は本来、自らで目指すべき姿、つまりは“主体”を設定しなければならない。“個人”は自らによって“主体”に対して意味を認めなければならないということだ。それにゆえに、現代の“個人”は不幸ながらも遊戯者であった。
一方で、現代におけるマーケティングやSNSは、その“主体”を僕らに絶えず与えてくれる。しかしその与え方というのは、神や王がいたあのスティックな秩序におけるそれとは異なる。ここが重要だ。つまり、僕らは固定された”主体”を与えられるのではなく、断続的に刹那的な”主体”が与えられる。さらには、その”主体”に僕らの独自性という“個”のようなものが反映されることで、その”主体”が外部から与えられたものではなく、あたかも自らに適した、僕らが”個”であることを肯定されたものとして与えられるのだ。
そのような“主体”は僕らにとって都合が良く、心地いいものだろう。僕らが遊戯者でありながら不幸であったのは、自らによって”主体”を設定することによるその恣意性や際限のなさ故であった。現代において、外部から与えられることによる安定性と自らの感覚的な嗜好を反映した個別性・刹那性が巧みに調合された”都合のいい主体”を、僕らは享受し続けているのだ。
しかしである。最初に釘を刺したように、やはりそれは解決策ではなく、単なる避難先なのだ。それらによって生き生きとしているように感じられる”個の自由”は、実際には成り立っていない。いや、成り立っているのだが、それは資本主義を推し進める、利益を増殖するためのエネルギーとしての”主体”を満たす”個”にすぎないのだ。つまり、そこで得ているのは”匿名な個”である。いくらでも代わりがいるのだ。その人でなくてもいいのだ。都合の良い”主体”を享受し続ける”個”は”匿名な個”ではあっても、独自の”主体”を満たすことができる”個”ではない。独自の主体を次々と満たし、外部に作用していく”個”ではない。膨張し続ける運動に、代替可能な部品として組み込まれているにすぎない。
しかし、僕らが潜在的に求めている”個の自由”とはそのようなものではないはずだ。一切の束縛や規制がない自由とはあり得ないことは確認済みであるが、僕らを固定化し画一化しようとするものに反発する僕らがいるはずである。そこに憧れていたのだ。そのあり方を検討しているのだ。
では、代替可能な”匿名な個”を批判し、僕らが「不幸な遊戯者」であることを正面から受け入れた上で、社会において独自の”個”であり、自由であるとはいかにして可能なのだろうか。そのような目指すべき”個”を”匿名な個”に対して”自由な個”とした上でそのスタイルを探る。
自由な個へ
もちろん、我々”個人”は必ず、幾分か”匿名な個”である。それは”都合いい主体”とまで言わなくとも、既存の社会を動かすために与えられた”主体”を満たす”匿名な個”であるということだ。それは当然のことだろう。一方で、ここで追求したい”自由な個”とはそこから滲み出すもの。我々”個人”が、”匿名な個”に漠然とした安堵や充足感、自由を感じることなく、それに抗うことでなり得る”自由な個”である。
”自由な個”をなることはもちろん容易ではない。それは、自らが「不幸な遊戯者」であり、際限なく”主体”を満たし続けることを脅迫された存在であることを受け入れざるを得ないし、その一方で、常に”匿名な個”として安定するように囁く媒体が溢れた中を振り払って生きなければならない。まず、自由の根拠を独自性として、自らの内部にのみ、純粋に独自な”個”を求めようとすることは無効だ。何度も確認したように、純粋に独自な”個”などはない。
一方で、あの資本主義の運動の束縛から抜け出し、その外部に独立した理想郷を作ろうとすることも無効だ。そこに社会的な”個”は生まれない。社会(外部)は”個”に先立つのであった。完全に独立した”個”は社会に対しての作用を持ち得ない。そして資本主義のあの運動はそれらすら、パック化して飲み込んでしまう。非日常で時代錯誤なものとして、同質化した塊のムラとして。
したがって、僕らが”自由な個”であるためには、至る所に資本主義が根を生やした社会の内部でその運動に接続しつつ、新たな”主体”を発見しあるいは生み出し、そこを満たすことで社会に対してゲリラ的に作用し続けるというスタイルをとる他ないだろう。そのスタイルは主流な運動に接続し続けることと、そこからズレてその運動を多少であっても改変せしめるような”主体”を突き刺し続けることとのバランスが求められる。それはグローバルに共有された世界観と、自らが”個人”として持つ独自の世界観を同時に持ち続けるとも言い換えられるだろう。つまり、”自由な個”である条件は、グローバルに共有された世界観に常に追いつき、それと同時に独自の世界観を持ち続けることとなる。そして、現代において前者はそのためのインフラが整備されているために容易であると言えよう。問題は後者だ。前者に追いつこうとすることは、僕らが膨大で急速な速度の情報の波にさらされることを意味する。その中で僕らはすっかりと後者を、独自の世界観を忘れていくのだ。そして気付かぬうちに、”都合のいい主体”に安堵し、”匿名な個”で自らを埋め尽くす。あるいは、グローバルな世界観に居心地の悪さを感じて自らの世界観に閉じこもるのだ。どちらの場合も、僕らは”自由な個”ではあり得ない。
現在不足しているのは後者のための場だ。独自の世界観を培うための場であり、そのための機会である。しかし独自の世界観とはどのように培われるのだろうか。
独自の世界観もまた、自らの外部によって培われる。一方で、ここで初めて、僕らは先天的な、自分の内部にあるものの重要性を認めよう。それは自分が何に傾注するかということだ。独自の世界観の発端はまさにそれである。五感から常に入ってくる膨大な情報の何に自分が惹かれるのか。しかし僕らは社会の構成員として、教育などによりグローバルな世界観を前提とした、画一的な傾注のスタイルを矯正される。それに抗わなければならない。世界に対してどこに傾注するのか、僕はそれを”心の襞”と呼ぶ。それは僕らの独自な世界観そのものではないが、その世界観を培うためのきっかけとなる僕らの内部に認めることができる独自性だ。もちろん、その襞でさえも後天的に、外部によって改変される。それは洗練され、あるいは角度を変えていく。
僕らは独自の心の襞をきっかけに、外部に関心を広げていく。そうして、僕らは人にモノに出会い、感じ、考え、それを血肉することで自らの世界観をより複雑なものに、より独自なものにしていく。自分にとって何が大事なのか、何を守るべきなのか、何を美しいと感じるのか。葛藤の中で、その都度自らの世界観を改変する。そしてその改変は絶え間なく行わなわれなければならない。世界観の構築と同時に、それを改変する外部を取り込み続けなければならない。固定された世界観に安住したら最後、それはあの資本主義の運動に取り込まれることでグローバルな世界観に取り込まれるか、もしくは籠城するための孤立した外部と成り果てる。僕らは変わり続けなければならない。それは変わらないためにも、である。
一方で、新たな”主体”を生み出しそれを満たそうとする瞬間、つまり”自由な個”である瞬間は、グローバルな世界観と独自の世界観の重なる位置で起こることを強調しておこう。グローバルな世界観では埋もれてしまっている、あるいはまだ生み出されていない”主体”を、独自の世界観から見ることで定め、それを満たそうとする時にこそ、僕らは自らの命に熱を風を感じるだろう。自らが世界の一部であると同時に”個”として力強くそこにあることを感じるだろう。直に世界に触れる感覚を得るだろう。そのような瞬間を生み出し続けることが”自由な個”であるということであり、僕が美しいと感じる”個”のあり方だ。
正しさの先へ
いよいよ独自の世界観を培う場について、あるいはそれによってなりえる”自由な個”についての実践について検討したいところだが、その前に一つ補足しておきたい。それは、今や、その”自由な個”はある種の理想主義的な志高き目標にとどまらないということ。というのも、これまで見てきたようなインターネットやAIによって特徴付けられる現代の事象は、我々を”匿名な個”に押し込むと同時に、我々が満たしてきた”主体”の位置を代わりに満たしつつあると考えられるからだ。それも致命的な位置をである。
かつての産業革命において、反復的な肉体労働は機械にその”主体”をとって代わられた。それによって人々は新たな”主体”を満たすことに価値を置いた。それがいわゆるホワイトカラーが満たし得る”主体”なのではないだろうか。それらが満たす主な”主体”は、管理や分析、予測、セールスなどと言えるだろう。つまりは情報の処理であり、また現状に対する最適化である。
そして今、インターネットとAIの発展は、現代における産業革命を引き起こしていると言っても過言ではない。今度、取って代わられる”主体”とはまさしくこれまでホワイトカラーが満たしてきたそれである。もはや、情報の処理や現状に対する最適化にいおて、我々がAIに敵わないことは容易に想像できる。では我々が次に満たしていく”主体”とはなんだろう。私はそれを”自由な個”が満たす”主体”、つまり個々人の独自の世界観から生み出され、現状の世界に対してカウンターを仕掛けるような”主体”であると考えている。量的なデータをもとにした分析や予測、それによる現状や未来への最適化、つまり”正しい”ということは無価値になるやもしれない。我々が満たすべきは新たな”主体”を定めるあるいは生み出すという”主体”であり、それによって多少にでも世界を改変するという”主体”である。それは、”自由な個”が成せる技なのだ。
”驚異”を求めて
さあ、ついに、”自由な個”、そしてそのための独自な世界観を培う場についての実践を検討するに至る。自らの内部や居心地の良い場に縮こまることなく、一方で”匿名な個”であることを促す世界の甘い囁きを払い除けて、僕らは”自由な個”とならなければならない。つまり、独自の世界観を培わなう場を作らなければならない。
僕が考えた戦略は極めてシンプルだ。前述した通り、独自の世界観はきっかけこそ自らの内部にある心の襞であるが、そこから僕らは外部に触れ、感じ、考える。それが独自の世界観を培うための唯一の養分である。一方で、それならば生きているだけでそれは実現していると言えるだろう。これは真っ当な指摘であり、正しい。僕らはたとえ近所を散歩するだけでも、微小に独自の世界観を改変している。しかし、”自由な個”を実現するための、つまりはグローバルな世界観に飲まれることなく、それに対してカウンターを仕掛けるだけの独自な世界観を培うための、改変が求められるのだ。ではそのような改変はどのような場で実現するのだろう。そのような場を僕は”驚異”と表現する。
自己改変としての”驚異”
”驚異”と言ったところで、それではあまりに抽象的であろう。そこでその要点を示すために、いくつかの参照を試みる。
クビレ
まずは歌人である穂村弘の書籍『短歌という爆弾』(2013)よりその内容を引用する。穂村は短歌が人を感動させるために必要な要素を「共感と驚異」とし、俵万智の以下の作品を引用している。
その上で、「翼」という言葉の選択に注目している。それはなぜ他の言葉ではなかったのか、ここがもしブランクであったら他にどのような言葉が考えられるだろうか、ということだ。穂村は例としてこの歌を改作している。
一般的に、ここでは「貝」の方が自然であろう。つまり、多くの人の体験と一致している。この点を指摘した上で、穂村はここであえて「翼」という言葉が用いられる効果を述べている。
注目したいのは「より普遍的な共感の次元へ運ばれる」ということ。穂村の言うクビレを通過することで、なぜ僕らは普遍的な共感の次元に運ばれるのか。
端的に言ってそれはまさに、自らの世界観が改変されるからである。僕らは自分が見る世界がそのまま目の前に広がっていると思い込む。しかし、実際には、僕らは誰しもがそれぞれの色眼鏡をかけているのだ。それを通して、色のついた世界を見ている。というか、そうでしか世界を見ることはできない。色眼鏡をかけていると気付かされた時、僕らは普遍的な共感の次元に至る。
一方で重要なのはまたすぐに色眼鏡をかけざるを得ないということだ。しかし、それはあのクビレ、つまり”驚異”を通過する前のそれとは異なる。”驚異”を通過することで、自らの世界観に一滴の他色が混入する。それは瞬く間に広がり、隅々にまで浸透する。その色が強く反映される箇所もあれば、全くされない箇所もあるだろう。そうやって僕らは自らの世界観が無職でないことを自覚し、それを改変するのだ。その”驚異”が深いほどに、垂れ落ちた色は、深く、広く、自らの世界観に広がっていく。
そのような”驚異”による自らの世界観の改変を繰り返し、僕らは何に美しさを感じ、何を守るべきかを考える。それは困惑や葛藤に近い作業であろう。しかし、それによって自らの世界観をより複雑に、より独自なものに質づえkることが、僕らを”自由な個”にする。
話された言語
別の視点から、”驚異”を捉えよう。メルロ=ポンティの論文「表現の科学と表現の経験」に所収される『世界の散文』より、内容を要約して引用する。
メルロ=ポンティはここで「話された言語(langage parle)」と「話す言語(langage parlant)」という概念を対立させて導入している。前者は純粋言語を表し、それによってなされる情報伝達としての会話やテキストを意味する。それは、既知の制度に則った複数者間の交流を表す。一方で後者は、新たな意味の産出や変形の力を意味する。つまり、制度そのものの変形を目指した交流を表す。
読書はその二つを含んだもの含んだものと言えるだろう。そこにある文字や言葉は既知の制度に則った作者と読者の交流、つまりは「話された言語」と言える。一方で、その内容に入り込んでいきそこに浸ることで、読者にとって既知であった文字や言葉の意味や印象、感覚が、つまりは既知の制度が新たになることがある。この作用を「話す言語」であると言えるだろう。
メルロ=ポンティの言う「話す言語」こそが”驚異”である。つまり”驚異”は自らの既知の制度、それまでの自らの世界観の改変や更新をもたらすものである。
turn turn
一旦これで、”驚異”の要点を押さえたこととしよう。問題はこれをどう実践するかである。暫定的に僕はそれを、実空間や文化、アート、身体に求めようと考えている。ここでは掘り下げないが、それらは肯定的に切断され、雑多であり、複雑であり、自らの時間を持っていると言えよう。そのような性質に可能性を感じているのだ。
そしてその可能性を追求する場として、僕はこの「turn turn」を作った。それは”驚異”を追求する場として、独自の世界観を培う場として、そして”自由な個”であるための場として。
僕らはグローバルな世界観と独自な世界観とのバランスの中で、常に変わり続けなければならない。それが極めて困難であるのはここまで見てきた通りである。主流に飲み込まれて溺れそうになった時、流れに疲れてうずくまって拗ねそうになった時、少量の自信と共にこう口にしてみよう。
「今日も僕らは、turn! turn!」
世界と自分自身は常に開いているはずである。