【優秀作】黎明 - 坡嶋慎太郎【純文学】
あらすじ
「心だ。心が大切なのだ。箸が転がるだけで笑えるほどの余裕を僕は持ち合わせていなかった。それがいけなかった」
自堕落な生活を送る大学3年生の「僕」は、ある日訪ねてきた友人のSと桜を見に行くこととなる。既に春は終わりを告げ、花は散っているはずの桜を見た「僕」の心境とは一体。
詩美な文章によって、素朴な日常と僕の心のうちを描いた坡嶋慎太郎の処女作。
本文
大学3年の夏頃。僕は自堕落な生活を送っていた。
行動範囲と言えば、大学と家との往復のみ。送られてくる仕送りは早々に底をつき――何に使ったかはとても人には言いたくない、カップラーメンとスナック菓子で腹を満たし、暇な時間には携帯を弄ぶ生活を過ごしていた。
そのうえ近所のコンビニに行くのにすらどうにも憂鬱な気持ちが拭えなかった。
友人などは片手で数えるほどしかいなかった。恋人などはとても望める状況ではなかった。
この有り様を見た人は大抵が「つまらない人生だ」と僕を憐れむか笑うかしていた。だが、僕にとっては存外悪いものとも思えなかった。そこには自由があった。しかし、側からみれば終わった生活であることもまた認めざるを得ない事実だった。だから、見かねた友人が口を出してきたこともまた責める気にはなれなかった。
その日は授業のない、世に言うところの全休であり、僕はいつも通り昼頃に起きた。――僕が朝方に起きるのは、それこそ外せない用事が入っているような大切な時だけだった。それから僕は前日に買い置きしていたカップラーメンで腹を満たし、敷きっぱなしにした布団に倒れ込み、既に読んだはずの雑誌を何とはなしに見つめていた。
日が暮れ始めていることに気がついたのは、誰かが訪ねてきたことを知らせるインターホンのおかげだった。ふと窓の外に視線を向けると、空は少しずつ藍を足したような色を浮かべていた。それがなぜだか面白くて、自然と笑みが浮かんだ。
その間もインターホンはなり続けていた。
――まったく、迷惑なやつだ。
僕の住んでいるアパートは家賃の低いオンボロアパートだった。それゆえ、あまり音を立てると隣人から文句を言われることは必至だった。だが、その日は運が良く、インターホンの音にも隣人は反応しなかった。
「今行く」
玄関に向けて声を出すと、思ったよりも大きな声が出た。また一つ笑った。
扉を開けると、そこにはビニール袋とビニール傘を提げた件の友人であるSが立っていた。
Sはボサボサの髪――本人はパーマだと言って聞かない、をした長身痩躯の陰気な男だった。だが、僕にはその見たものに貧乏神を思い起こさせるような鬱々とした容姿が好ましく感じられた。
「何か用か」
最近は人と話していなかったせいだろう。想像よりも低い、ぶっきらぼうな声が出た。
「いや、少し話でもと思ってね」
Sはそれを気にした風もなく、手に提げたビニール袋を見せつけた。
「酒か」
「酒だね」
「僕はあまりアルコールには強くない」
「知っているさ、これは僕が飲むんだ」
にやりと笑みを浮かべたSは手にした傘を立てかけると、勝手知ったるとでもいうように僕の横を通り抜けキッチンへと向かっていった。
「おいおい、君は普段何を食べているんだ。何も入ってないじゃないか」
しゃがみ込み、小型の冷蔵庫を開けたSがそう口にした。
「その日食べるものはその日調達すれば良い。それに、僕には金がない」
「全くもってだらしがないな。まぁ、それがまた君らしい」
ふふ、と口に出して笑ったSは飲み物を数缶と幾つかのつまみを手に、僕の座るテーブルの前へと腰掛けた。Sの前には銀色のアルコール飲料が、僕の前には赤色をした炭酸飲料が置かれた。
「最近はどうだい」
プシュッと缶ビールの蓋が音を立てた。
「変わりはない」
「そうか、今もまだこれか」
部屋を見回したSは呆れた様子で苦笑した。脇に寄せられた布団と乱雑に積まれた雑誌類が僕の生活を一目で表していた。
「これか、とはまた随分な言い草だ。僕にはこの生活があっているんだ」
「分かってはいるけどね。これは苦学生というよりもさらに……」
「住む家があるだけマシだろう」
「それはそうだろうね」
そんな軽口を交わし、僕らは互いに皿の上の豆菓子を口に放り込みながら近況についての話をした。
Sは今、日本各地のオカルトや民俗学について調べているのだと言っていた。アレイスター=クロウリーの魔術観念がどうだとか、東海のあたりがどうだとか話をしていたが、僕には話の半分も理解できなかった。一方の僕はと言えば、これもまた、特筆すべきようなことはしていなかった。
Sとは高校の頃からの知り合いだった。偶然同じ委員会に所属し、周りから仕事を押し付けられたことが出会いだった。
その頃からSは何かと僕の自堕落さについて煩わしく口を出してきていた。彼は当時からお節介な人間だった。不思議なのはそのお節介さに僕には珍しく嫌悪を抱かなかったことである。
Sの家はそれなりの金持ちのようで、どこか浮世離れしたところがあったが、それがある種のデカダンスに傾倒していた――したくてしていたわけでもない、僕と親和性があったのだろう。
「聞いているのかい」
「聞いている。だが、それは僕に話す内容じゃないだろう」
「いいじゃないか。たまには」
僕のそっけない対応にもSは気を悪くすることがなかった。それは、人付き合いが苦手な僕にはとてもありがたいことだった。
「そうだ、君。この後、桜でも見に行かないか」
「桜? 桜ってお前、今はもう散っているだろう」
「いやなに、桜だって花だけが主役じゃない。今ならまだ葉が付いているはずだ」
Sは愉快そうに笑った。酒を飲むと突飛なことを言い出す癖は治っていなかったようだった。
正直に言えば、花のない桜など見て何が楽しいのか僕にはわからなかった。それに、外に出るという提案自体も僕を億劫にさせた。
そんなふうに気乗りしない僕を見かねたSは「よし、分かった。少し休んでから行こう。たまには、外に出ないと身体にカビが生えてしまうよ」とふざけたように笑っていたが、ただ単に自分が眠かっただけなのだろう。僕が「あぁ、少し休んだらな」と返事をした途端にうつらうつらとし始めた。
酒の力は偉大であった。僕なんぞにしてみれば、アルコールは一滴程度垂らしただけで次の日まで動けなくなるのが常だった。
Sの前にはいつのまにか空になったビール缶がいくつも倒れていた。
しばしの静寂が訪れた。Sとの間の無言の時間は不思議と苦にならなかった。
Sは器用に座ったまま眠っているらしかった。暇を持て余した僕は手元の文芸誌に目を落とした。そうして、パラパラと頁を繰っていると、ふいに或新人賞の受賞者名が目に入った。
「…………」
僕はまた頁を閉じた。それから床の隅に積まれた埃まみれの文庫本から数冊を選び出し、改めて読み返し始めた。一度読んだはずの物語の内容も、今となっては覚えていなかった。
かつては僕にも夢があった。いや、まだ未練が残っていることは僕自身が一番よくわかっていた。だが、それを叶える才能も技量も僕は持ち合わせていなかった。
――努力とは。
努力とは、才能のある一握りの者が行うことを許される自信の研鑽である。それに気づいた時に、斯くも虚しいことはなかった。
大学生如きが何をほざくか、と人は言う。だが、僕にはやはり努力は無駄――勘違いして欲しくないのは、才能のない人間の努力を否定するわけではない、であるように感じられて仕方がなかった。
一冊。二冊。と、テーブルの上に文庫本が積み上がっていく。まるで本でできた樹木のようである。知識は幹だ。想像力は肥料か? 僕にはどちらもないように思われた。
気づけば空が白らむ気配が感じられた。
「おはよう、つい眠ってしまったよ」
その声にハッとさせられた。いつのまにかSは瞑っていた目を開き、僕の顔をじっと見つめていた。今起きたように装っているが、多少前から起きていたのだろう。
Sは絶対に次の日までアルコールを引きずらない質だった。
「おはよう」
「ああ、おはよう。勉強かい?」
「見ればわかるだろう。読書だ」
「そうかい。じゃあ、そう言うことにしようか」
Sは普段通り口角を上げたニヤケ面をしていた。だが、その目はどこか笑っていないように見えた。
「さて、それじゃあ約束通り、外に出るとしよう」
「本当に行くつもりか」
「そう言っているだろう?」
Sはおもむろに立ち上がると、可笑しな声を上げながらグッと背伸びをした。
「…………仕方ない」
一つ溜息をついた僕はハンガーにかけられた上着を引っ提げ、財布と携帯をポケットに仕舞い込んだ。
「ほら、行くぞ」
「いつも通り準備のお早いことだね」
早足で外に出る僕をSが慌てたように追いかけてきた。
夜のうちに再び雨が降ったのだろう。湿った気配があたりに充満していた。それに加えて、アスファルトの路面には幾つかの水溜りができていた。
「いい朝だ」
深呼吸をしながらSがそう言った。
「それで、桜はどこだ」
「とうとう自分の住んでいる土地の土地勘もなくなったようだね」
Sは呆れたようにしながら、僕を先導するように歩き始めた。手にした傘を弄びながら夜の続きと言わんばかりに僕の興味のない話を口にし始めてからは、Sの話に耳を傾けるのをやめてしまった。
朝は嫌いじゃなかった。
スーツ姿の男が早足で過ぎていった。誰も彼もが何かに追われるようにして生きていた。その輪から僕等だけが外れているようだった。
のんびりと町中を歩くのはいつぶりだろう。振り返ってみれば、いつからか僕は目の前の些細なことにも関心を寄せなくなっていた。
どうやらカビが生えているのは身体ではなく心であるようだった。
心だ。心が大切なのだ。箸が転がるだけで笑えるほどの余裕を僕は持ち合わせていなかった。それがいけなかった。
何かにつけて言い訳するのも、人付き合いが下手なのも、何かに打ち込むことをしないのも、心に余裕がないからだ。だが、そんな自分を否定したくはなかった。
世間は、あるいは僕に近しい人等は僕を否定するかもしれない。それでも、僕だけは僕の味方であらねばならなかった。そうでなければいけなかった。
路傍の石を蹴り飛ばすと、コロコロと回りながら、排水溝へと落ちていった。
「そら、着いた」
その声で意識は現実へと引き戻された。
眼前の花は全て散っていた。
――やはり桜とは儚いものだ。
そんな感想とは裏腹に、枝には力強い緑が芽吹いていた。植物の生命力というのは人間には真似できないものだった。とりわけ、僕のような人間には。
枝葉からは雫が滴っていた。昨夜の雨のせいだろう。陽光を浴びたそれは、まるでそれ自体が光源であるかのように光を帯びていた。
――電球か。あるいは、ラムプか。
光る水滴と芽吹く新緑は僕の憂鬱な心を照らすようだった。
「来てよかっただろう」
僕を見ずにSがそう口にした。それは半ばなにかを確信しているような口ぶりであった。
「あぁ……まぁ、な」
掠れたような声で返事をした。
僕にはそれでいっぱいいっぱいだった。
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