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価値がつなぐ両輪


 先日、五十の誕生日を迎えた。すっかり忘れていたのだが、亡くなった元夫は私と生年月日が全く同じだった。「今頃、○○君のお母さんが陰膳を供えてるだろうね」と母がふいに言ったのを聞いて思い出した。いつまでも39歳の彼の事を。

 恥ずかしながら、「陰膳」という言葉を数か月前まで知らなかった。父が高校を卒業して集団就職をしたときに、遠くに行ってしまった息子を思い(父の)母親が、しばらく陰膳を供えていたという話を聞いたのが初めてだった。「陰膳」には故人のためのものと、遠くにいる家族のためのものがあるらしい。私の実家には仏壇が無いし、父も母も地元の人間ではないので、恥ずかしながら仏壇にお茶すら供えたことが無い。

 唐突だが、子供のころから個人主義的な思考をしがちだったのは、もしかしてこういう体験が少なかったからなのかな?と思うことがある。単純な発想で申し訳ないのだが、私は核家族で育った。祖父母と会うのは一年に一回あるかないか。母方も父方も、祖父母と同居している家族がいたが、私の家族ではなかった。祖父母と暮らす従妹たちは、とても可愛がられているように見え、自分達はよそ者なんだと感じることが多かった。

 そんなわけで、祖父母から教訓じみた昔話や迷信をほとんど聞くこともなく、非常に合理主義で現実主義な父親の影響を大きく受けた私は、「無駄」なものは冷酷非情に「無駄」と考えるようになった。中学生のころには社会科で習った「共産主義」に衝撃を受け、自分の求める世界はこれだ!と思った。当時父に「共産主義の方が皆平等になるし、平和な世界になるんじゃないのかな?」と話を振ってみたところ、「そうか、○○はそう思うんだな」という答えが返ってきたのが不思議であった。合理主義の父親が同意しないはずがないと思っていたのだ。

 結局その後、多感な時期に、極左の行ったことや、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体を見聞きし、理想と現実というのはこうも乖離しているのだとがっかりしていた。自分が通っていた自動車学校のパンフレットに「親切丁寧に教えます」と書いてありながら、教官に毎日のように「ヘタクソ!死ね!」などと言われ、友達と一緒に「この世はウソばっかりだな」と高校卒業前の鬱屈を募らせていたのと同じレベルで語っていいものか計りかねるが。

 先日8月27日朝日新聞朝刊の「異論のススメ 社会秩序の崩壊と凶弾」は、そんなことを思い出させた。”リベラルな価値にも不可欠な保守の精神 大競争時代が脅かす”と京都大学名誉教授、佐伯啓思氏の記事に刮目した。元首相安倍晋三氏の事件から、話は民主主義について続く。民主的社会は「民主主義」「言論の自由」「法の支配」「公私の区別」「権利の尊重」などが相互に連結した不変的価値とされ、それを総称して「リベラルな価値」というが、今日、「リベラルな秩序」が崩壊しつつあるという。佐伯氏はリベラルな秩序の実現は、リベラルな価値の普遍性によって担保されるのではなく、「目に見えない価値」をたよりにして営む日常の生によって実現されるという。そして「目に見えない価値」を重視するのは「保守の精神」であると。

 なるほど、最近の言論やSNS界隈は目もあてられないような、見事な荒野である。個人の自由を大切にするということを建前にした、人との繋がりのぶった切りが放置されている。「論破」しあう人々。
 SNSなどではなく、同じ地域や趣味のつながりで出会った友人に向かっても、ああいう言葉を投げつけられるのだろうか?「自由」を武器に「やりたいことだけやる」で生きていけることはできるだろう。死ぬときも一人でもかまわないだろう。しかし人間はしょせんリベラルという「理想」だけでは生きていけないのだ。「真の保守」や「真のリベラル」がどういうものなのか私には分からないが、佐伯氏の言葉、「社会の土台や、人々の精神の拠り所が崩壊しつつある」には、保守の精神の衰退が見える。

 死んだ息子、遠くへ嫁いだ娘、そのような、現実には役に立たない存在が必要なことも、人として必要な瞬間もあると認めることから始めたい。

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